ジャッカルの頭を持つミイラ作りの神。心臓を天秤にかける。

「心臓の計量(フネフェルのパピルス)」 / パブリックドメイン 出典
アヌビスとは何の神様か
アヌビスはひとことで言えば死者を送り出す技師です。
黒いジャッカル、または犬の頭を持つ人の姿で描かれます。
エジプト最古級の神の一柱。 オシリスより古い。
役目は三つあります。
ミイラを作ること。 最初のミイラはオシリスであり、それを作ったのがこの神とされます。遺体を防腐処理する神官は、アヌビスの仮面をかぶりました。
墓を守ること。 ツタンカー?メン王墓では、箱の上に伏せた黒い像が発見されています。
そして、
心臓を天秤にかけること。
死者の心臓と、マアトの羽根を量ります。この場面は『死者の書?』第125章に描かれ、
エジプト美術でもっとも有名な図像の一つ
になりました。
黒いのは、腐敗を防ぐ瀝青の色と、ナイルの肥沃な泥の色です。死ではなく、再生の色でした。
アヌビスのヒエログリフの表記と読み方
エジプト語では jnpw、「インプウ」に近い音でした。日本語の「アヌビス」はギリシャ語形です。
この神には多くの称号がありました。
「西方の第一の者」(ケンティ・アメンティウ)── 西は日没の方角、つまり死者の国。
「聖なる地の主」 ── 墓地の支配者。
「包帯をまとう者」(イミウト)── 防腐処理の担当。
姿の動物は、長らく「ジャッカル」とされてきましたが、
近年の遺伝学の研究で、エジプトに生息するのはアフリカン・ゴールデンウルフ(オオカミの一種)であることが分かった。
古代エジプト人が何を見て神の姿を定めたか、再検討が続いています。
いずれにせよ、墓地に現れて遺体を掘り返す動物でした。その動物を、墓を守る神にしたわけです。
jnpw(インプウ)
ヒエログリフの転写。「王子」「子ども」を意味する語に由来するとする説がある。
Ἄνουβις(アヌビス)
ギリシャ語形。日本語の「アヌビス」はこれを経由している。
jmj-wt(イミウト)
「包帯をまとう者」の意。防腐処理の場を守る称号。
アヌビスの物語
出生が定まらない ─ 三つの伝え
アヌビスの親については、記録が一致しません。
もっとも知られるのは、プルタルコス?による伝えです。
ネフティスが、姉の夫オシリスとのあいだにもうけた子。 セトを恐れて捨てたところを、イシスが拾って育てた。
この筋では、イシスは夫の不義の子を、自分の子として育てたことになります。そしてアヌビスは、
のちに、オシリスの遺体を探すイシスを助ける。
一方、古いエジプトの文献では違います。
ピラミッド・テキストではラーの子とも、牝牛バトの子ともされます。そもそも系譜が語られないことも多い。
理由は明快です。
アヌビスは、オシリス信仰より古い。
もとは独立した冥界の主でした。のちにオシリス信仰が広まると、その配下に位置づけ直されたのです。
プルタルコスの記録は、ギリシャ語で、しかも千数百年後に書かれたものである点に注意が必要です。
最初のミイラを作る ─ 技術の起源
セトに切り刻まれたオシリスの遺体を、イシスが集めました。
それを繋ぎ、防腐し、包帯を巻いたのがアヌビスです。
これが世界最初のミイラとされた。
エジプトの防腐処理は、この行為の再現でした。
実際の手順は詳しく分かっています。
脳を鼻から取り出し、内臓を取り出してカノポス壺?に納める。心臓だけは体内に残す。 遺体をナトロン(天然の炭酸ナトリウム)に七十日漬けて乾かし、香油を塗り、包帯を巻く。
心臓を残す理由が重要です。
心臓は、裁きで量られるものだから。
エジプト人は思考も感情も心臓が担うと考えました。脳は捨てられます。
作業を行う神官は、
アヌビスの仮面をかぶった。
実物と考えられる仮面が、ヒルデスハイムの博物館にあります。
神話が、そのまま職業の手順書でした。
心臓を量る ─ 死者の書 第125章
死者は冥界を旅し、「二つの真理の広間」にたどり着きます。
中央に天秤があります。
片方の皿に、死者の心臓。もう片方に、マアト?の羽根。
天秤を扱うのがアヌビスです。トートが結果を記録し、四十二柱の神々が並びます。
死者は、四十二の罪を犯していないと申し立てます。
「私は盗んでいない」「私は嘘をついていない」「私は水をせき止めていない」
これを「否定告白?」といいます。
釣り合えば、オシリスの前に進み、来世が許されます。
釣り合わなければ、
アメミット(ワニの頭、ライオンの胴、カバの尻)
が心臓を食います。
それは死ではなく、
二度目の死?──存在そのものが消える。
エジプト人がもっとも恐れたのはこれでした。
死者の書には、心臓に「私に不利な証言をするな」と語りかける呪文まで含まれています。
墓を守る ─ ツタンカーメンの黒い犬
アヌビスは、墓地の主でもありました。
1922年に発見されたツタンカーメン王墓では、
黒く塗られた木製のアヌビス像が、箱の上に伏せた姿で置かれていた。
宝物室の入口を、まっすぐ見つめる向きでした。金の耳飾り、銀の爪。首には亜麻布が巻かれていました。
三千年以上、その姿勢のままでした。
墓には「アヌビスの封印」と呼ばれる印も用いられます。
九人の捕虜を従えたジャッカル
の図で、王家の谷の墓の扉に押されました。開ければ神を敵に回すという警告です。
また、イミウトと呼ばれる呪具がありました。
首のない獣の皮を、棒に吊るしたもの。
防腐処理の場に立てられ、王の墓にも副葬されました。第一王朝から使われています。
エジプトの外へ ─ ヘルマヌビス
ギリシャ人がエジプトに来たとき、アヌビスを見て自分たちの神を思い出しました。
死者を冥界へ導く神=ヘルメス。
二柱は結び付けられ、
ヘルマヌビス
という神が生まれます。ローマ時代の像では、ヘルメスの姿にジャッカルの頭が載っていたり、杖を持ったアヌビスとして描かれます。
さらに、魔術文書でこの神の名が頻繁に呼ばれました。ギリシャ語の呪文パピルスには、
アヌビスの名を唱えて霊を呼ぶ
手順が残っています。
アヌビスの名は、エジプトの宗教が終わったあとも魔術の世界で生き延びました。
現代でも、この神はエジプトの象徴として最もよく使われる図像の一つです。
黒い犬の頭。三千年以上、姿がほとんど変わっていない。
アヌビスの家系図と家族
アヌビスの性格と人物像
アヌビスは、恐ろしくない死の神です。
ここが重要です。罰する神でも、命を奪う神でもありません。
遺体を丁寧に扱い、天秤を正しく操作する。
仕事は手順を守ることです。心臓を食うのはアメミットであり、この神ではありません。天秤を傾けたりもしません。
黒い姿は、
腐敗を防ぐ瀝青の色であり、ナイルの肥沃な泥の色。
再生の色です。
もうひとつ、墓を掘り返す動物を、墓を守る神にしたという逆転があります。
恐れの対象を、守り手に変えている。
エジプト人の考え方がよく表れています。
出生すら定まらないほど古く、オシリス信仰に取り込まれても消えませんでした。
技術を持つ者は、体制が変わっても必要とされる。 この神はそういう位置にいます。
アヌビスを祀った神殿と遺跡
アヌビスの信仰は、神殿より墓地に残りました。
この神の場所は、参拝する所ではなく、遺体を処理し、埋葬する所だったからです。
サッカラ、王家の谷、各地の墓域。
数百万体の動物ミイラが示すとおり、祈りの規模は巨大でした。
キュノポリス(Cynopolis / Hardai)
アヌビス信仰の中心地
ギリシャ語名キュノポリスは「犬の町」を意味します。エジプト語名はハルダイ。
アヌビス信仰の中心地でした。
この町では、犬が神聖な動物として扱われました。プルタルコスは興味深い記録を残しています。
隣町オクシュリンコスの人々が魚を神聖視していたのに対し、キュノポリスの人々は犬を神聖視していた。
両者は互いの聖獣を食べて争いになったと記されます。
信仰の違いが、実際の暴動になった記録。
遺構はほとんど残っていませんが、古代エジプトの都市信仰がいかに土地ごとに違ったかを示す例として知られます。
カイロ南方。現在は農地。専門的な調査地。
アヌビエイオン(サッカラ)(Anubieion, Saqqara)
数百万体の犬のミイラが出た聖域
サッカラのアヌビス聖域です。
地下の墓からは、
推定七百万体を超える犬・ジャッカルのミイラ
が発見されました。
これは奉納でした。参拝者が動物のミイラを買い、神への供物として納める慣習です。
調査の結果、
多くは生後数時間から数日の幼犬だった。
奉納用に繁殖させていたと考えられています。近くには専用の飼育施設があったとみられます。
信仰が、産業になっていた。
古代エジプトの宗教の実態を示す、重要な発見です。
サッカラには階段ピラミッド(ジェセル王)もあり、合わせて見学できます。
カイロから車で約1時間。ギザと合わせて回るのが一般的。世界遺産。
ツタンカーメン王墓(KV62)(Tomb of Tutankhamun)
アヌビス像が発見された状態で残っていた墓
ツタンカーメン王墓(KV62)の住所: エジプト ルクソール県 王家の谷
ツタンカーメン王墓(KV62)の祀られた神: アヌビス(副葬)
ツタンカーメン王墓(KV62)に残るもの: 墓室・壁画
1922年、ハワード・カーターが発見しました。
宝物室の入口に、
黒いアヌビス像が、箱の上に伏せて置かれていた。
入口をまっすぐ見つめる向きで、三千年以上その姿勢のままでした。首には亜麻布が巻かれ、金の耳飾りと銀の爪を持ちます。
発見時の写真は、エジプト考古学でもっとも知られた一枚です。
墓の扉にはアヌビスの封印(九人の捕虜を従えたジャッカル)が押されていました。
像そのものはカイロの大エジプト博物館にあります。墓は王家の谷で見学できます(別料金)。
王家の谷。ツタンカーメン墓は追加チケットが必要。
アヌビスが現代に残した痕跡
アヌビスの姿は、三千年ほとんど変わらずに残りました。
アヌビスの仮面: 防腐処理を行う神官が着用した。実物と考えられるものがドイツ・ヒルデスハイムの博物館にある。
心臓の計量: 死者の書第125章の図像。エジプト美術でもっとも複製された場面の一つ。
ヘルマヌビス: ギリシャのヘルメスと融合した姿。ローマ時代の魔術文書で頻繁に名を呼ばれた。
イミウト: 首のない獣の皮を棒に吊るした呪具。第一王朝から防腐処理の場と王墓で使われた。
アヌビスが司るもの
ミイラ作り・防腐
最初のミイラを作った神。防腐処理の神官はこの神の仮面をかぶった。
死者の守護
冥界への旅を導く。「西方の第一の者」の称号を持つ。
墓の守護
墓地の主。王家の谷の墓の封印にこの神の図が用いられた。
公正な裁き
心臓を量る天秤を操作する。傾けることはないとされた。
アヌビスが登場するゲーム・アニメ
「死神」として描かれることが多い神です。
原典では罰する神ではなく、手順を守る技師なので、この点は誤解といえます。心臓を食うのはアメミットであり、アヌビスは天秤を扱うだけです。
一方、黒い犬の頭という姿は忠実に再現されます。図像としての完成度が高いためです。
アヌビスが登場するゲーム
アヌビスが登場するアニメ・漫画・映像
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アヌビスについてよくある質問
アヌビスは何の神様ですか。
ミイラ作りと墓地の神です。死者の心臓とマアトの羽根を天秤にかけ、来世へ進めるかを判定する役目を担いました。
アヌビスはジャッカルですか、犬ですか。
長らくジャッカルとされてきましたが、近年の遺伝学の研究で、エジプトに生息するのはアフリカン・ゴールデンウルフ(オオカミの一種)であることが分かりました。古代エジプト人が何を見ていたかは再検討が続いています。
アヌビスはなぜ黒いのですか。
遺体の防腐に使う瀝青の色と、ナイルの肥沃な泥の色です。死ではなく再生を表す色でした。
アヌビスの親は誰ですか。
記録が一致しません。プルタルコスはネフティスとオシリスの子とし、イシスが拾って育てたと記します。一方、古いエジプトの文献ではラーの子とも牝牛バトの子ともされます。オシリス信仰より古い独立した冥界神だったためです。
心臓を量る儀式とはどういうものですか。
死者の心臓を天秤の片方に、マアトの羽根をもう片方に載せます。釣り合えば来世が許され、釣り合わなければアメミットが心臓を食い、存在そのものが消えます。死者の書第125章に描かれています。
なぜ心臓だけミイラに残すのですか。
裁きで量られるのが心臓だからです。エジプト人は思考も感情も心臓が担うと考えました。脳は鼻から取り出して捨てられます。
アヌビスと併せて覚えたい言葉・用語
カー(kꜣ/生命力)
人と一緒に生まれ、死後も供物を受け取る生命力。クヌムがろくろで人を作るとき、肉体とカーの二体を同時に形作った。
死者の書(ししゃのしょ)
正しくは「日のもとに出現するための書」。冥界を通るための呪文集で、パピルスに書いてミイラとともに納めた。名前の欄を空けた既製品が売られており、購入者の名を書き入れて使った。
プルタルコス(Plutarch)
ギリシャの著述家。『イシスとオシリスについて』を書いた。オシリス神話が一続きの物語として読めるのはこの書だけだが、ギリシャ語で、神話の成立から二千年以上あとの記録である点に注意が要る。
カノポス壺(Canopic jars/内臓を納める壺)
ミイラを作るとき、肝臓・肺・胃・腸を納める四つの壺。ホルスの四人の子が担当し、イシス・ネフティス・ネイト・セルケトが守る。心臓だけは裁きで量られるため体内に残される。
マアト(mꜣꜥt/真理・秩序)
真理・正義・秩序・調和・均衡をまとめて意味する語であり、同時にそれを体現する女神の名。日本語に一語で訳せない。王の務めは「マアトを保つこと」と定義された。対義語はイスフェト(混沌)。
否定告白(ひていこくはく)
死者が四十二柱の神々の前で、それぞれに罪を犯していないと申し立てる形式。「私は盗んでいない」「私は量りをごまかしていない」など内容が具体的で、信仰ではなく行為を問う点が特徴。
二度目の死(にどめのし)
心臓を食われて存在そのものが消えること。エジプト人が最も恐れた事態で、墓に名を刻み続けた理由でもある。