混沌の大蛇。毎夜、太陽の船を襲い続ける。

「トートとケプリ(イメンエムサウフのパピルス)」 / パブリックドメイン 出典
アペプとは何の神様か
アペプのヒエログリフの表記と読み方
エジプト語では ꜥꜣpp。日本語ではアペプ、アポピス、アポフィスなどと表記されます。
書き方に、特別な決まりがありました。
名前を書くとき、蛇の記号にナイフを刺した形にする。
エジプトでは書かれたものが力を持つため、
そのまま書くと、危険だと考えられた。
同じ扱いは、墓の中の蛇やサソリの記号にも見られます。
文字が、実害を及ぼすと信じられていた。
この蛇が体現するのはイスフェト(混沌・不正)。
マアト?(秩序)の、正反対。
小惑星「アポフィス」の名は、このギリシャ語形から取られました。2029年に地球へ接近することで知られます。
ꜥꜣpp(アアペプ)
ヒエログリフの転写。名を書くときは蛇の記号にナイフを刺した形を使い、実害を封じた。
Ἄποφις(アポピス)
ギリシャ語形。日本語では「アポフィス」とも表記される。
jsft(イスフェト)
この蛇が体現する「混沌・不正」。マアト(秩序)の対義語。
アペプの物語
毎夜襲う ─ 終わらない戦い
呪う書 ─ 名前を焼く儀式
アペプは、祀られないかわりに、
呪われました。
『アペプ打倒の書』という文書が残っています。神殿で実際に行われた儀式の手引きです。
手順は具体的です。
蝋でアペプの人形を作る。
緑のインクで名前を書く。
人形に唾を吐き、足で踏み、ナイフで刺す。
火にくべて焼き、灰を尿と混ぜる。
そして呪文を唱えます。
「汝は倒された。汝は存在しない。」
この儀式は、
毎日、決まった時刻に行われました。
特に、日の出前が重要でした。
朝が来ることを、人の側から手伝う。
という考え方です。
神官の仕事は、祈るだけではありませんでした。
世界の運行に、実務として参加していた。
この儀式は、エジプトの宗教が「維持のための労働」だったことをよく示しています。
神ではないもの ─ 混沌の位置
アペプには、
神殿がありません。神官もいません。祭りもありません。
エジプトでは、ほとんどあらゆるものが神になりました。 川も、風も、言葉も、認識も、そして概念も。
しかしこの蛇だけは、
神の枠の外に置かれた。
位置づけとしては、
イスフェト(混沌)そのもの。
マアト(秩序)の対極です。
アメミットと比べると、違いがはっきりします。
アメミットは、秩序の執行者。 規則どおりに動く。
アペプは、秩序の破壊者。 規則そのものを壊しに来る。
どちらも恐ろしいですが、
アメミットは正しい。アペプは正しくない。
そして重要なのは、
アペプは消せない。
エジプト人は、混沌を根絶できるとは考えませんでした。
毎日、押し返すしかない。
ヒクソスの王とアポピス ─ 名を持った人間
興味深い事実があります。
ヒクソス(第15王朝、アジア系の支配者)の王のなかに、
アポピという名の王がいました。
第15王朝で最も長く在位した王です。
エジプトを支配した異民族の王が、混沌の蛇の名を持っていた。
これは偶然ではないと考えられています。
セム系の神バアルや、セトと結びついた命名
だった可能性が指摘されます。ヒクソスはセト信仰を受け入れていました。
そして、
この王を追い出したのが、テーベの王家。
アメンを掲げて新王国時代を開きます。
『アポピとセケンエンラーの物語』という文書には、
アポピ王が、テーベの王に難癖をつける
場面が残っています(結末部分は失われています)。
セケンエンラー王のミイラには、
斧と槍による激しい頭部の傷
があり、戦死した可能性が高いとされます。
アペプの家系図と家族
アペプの性格と人物像
アペプには、目的がありません。
王位を狙うわけでも、復讐するわけでもない。
ただ、太陽を止めに来る。
理由は語られません。
この蛇が表すのは、
世界が元の混沌に戻ろうとする力。
創造とは「分けること」でした。アペプは、それを混ぜ戻そうとします。
注目すべきは、
エジプト人が、この蛇を根絶できると考えなかった
ことです。
毎晩勝つ。毎晩また来る。
終わりがありません。
そして、人がその戦いに参加しました。
神殿で毎日、蝋人形を焼く。
祈るだけでなく、手を動かして朝を迎えに行く。
世界は放っておけば壊れる。だから毎日、押し返す。
これが、三千年続いたエジプトの宗教の骨格でした。
アペプを祀った神殿と遺跡
アペプに神殿はありません。
祀られたことがないからです。
この蛇に会えるのは、王墓の壁画と、呪いの文書だけ。
王家の谷の冥界文書には、
縛られ、刺され、切られた巨大な蛇
が繰り返し描かれています。
描くこと自体が、呪いの一部でした。
ラメセス6世の墓(KV9)(Tomb of Ramesses VI)
太陽の夜の航行が全編描かれた墓
ラメセス6世の墓(KV9)の住所: エジプト ルクソール県 王家の谷
ラメセス6世の墓(KV9)の祀られた神: ラー・アペプ・オシリス
ラメセス6世の墓(KV9)に残るもの: 彩色壁画・天文天井
王家の谷でも屈指の保存状態の墓です。
壁面には、
『門の書』『洞窟の書』『大地の書』
といった冥界文書が、ほぼ全編にわたって描かれています。
そのなかに、
アペプが太陽の船を襲い、神々に討たれる場面
が繰り返し現れます。縛られ、ナイフを刺された巨大な蛇の図です。
天井には、
ヌトの体に沿った天文図
があります。
この墓の入口の上にツタンカー?メンの墓があったため、
建設時の職人小屋の瓦礫が、KV62を覆い隠していた。
結果として、ツタンカーメン王墓が三千年守られました。
王家の谷。通常チケットの対象に含まれることが多い。世界遺産。
大英博物館(アペプ打倒の書)(Papyrus of Bremner-Rhind, British Museum)
アペプを呪う儀式の手引きが残るパピルス
大英博物館(アペプ打倒の書)の住所: イギリス ロンドン グレート・ラッセル・ストリート 大英博物館
大英博物館(アペプ打倒の書)の祀られた神: ラー・アペプ
大英博物館(アペプ打倒の書)に残るもの: パピルス(紀元前4世紀頃)
ブレムナー・リンド・パピルスとして知られる文書です。
そのなかに、
『アペプ打倒の書』
が含まれています。
蝋人形を作り、緑のインクで名を書き、唾を吐き、踏み、刺し、焼く。
という儀式の手順が、具体的に記されています。
また、
ラーの自己創造についての記述
も含まれ、エジプトの創世神学の資料としても重要です。
アペプに神殿はないため、この蛇に「会える」のは文書と墓の壁画だけです。
大英博物館のエジプト・パピルス収蔵は世界有数ですが、展示は保存の都合で入れ替え制です。
大英博物館は入館無料。パピルスの展示は入れ替わる。
アペプが現代に残した痕跡
アペプの名は、天体の名として現在も使われています。
小惑星アポフィス: ギリシャ語形から命名された地球接近小惑星。2029年に地球へ接近することで知られる。
『アペプ打倒の書』: 蝋人形を焼く儀式の具体的な手引き。大英博物館蔵のブレムナー・リンド・パピルスに含まれる。
刺された蛇の記号: この名を書くとき、蛇の記号にナイフを刺した形を使った。文字そのものが力を持つという考えによる。
ヒクソスの王アポピ: 第15王朝で最も長く在位した王の名。異民族の支配者が混沌の蛇の名を持っていた例。
アペプが司るもの
(祀られない)
この蛇には神殿も神官も祭りもない。祈る対象ではなく、毎日呪う対象だった。
アペプが登場するゲーム・アニメ
「巨大な蛇の魔物」として扱われることがほとんどです。
原典で重要なのは、
毎晩倒されるのに、毎晩また来る
という点です。終わらないことがこの存在の本質ですが、創作では最終的に倒される敵として描かれます。
倒せてしまうと、別物になります。
アペプが登場するゲーム
Smite
エジプト神話勢のキャラクターとして実装されています。
アペプが登場するアニメ・漫画・映像
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アペプについてよくある質問
アペプとは何ですか。
毎夜、太陽の船を襲う巨大な蛇です。混沌(イスフェト)を体現し、マアト(秩序)の対極に位置します。神々に毎晩倒されますが、翌晩また現れます。
アペプは神様ですか。
神ではありません。神殿も神官も祭りもなく、祈る対象ではありませんでした。むしろ神殿で毎日呪う対象で、『アペプ打倒の書』という儀式の手引きが残っています。
アペプはどうやって倒されるのですか。
セトが船首で槍を突き、マアトが秩序を保ち、イシスとトートが呪文を唱えます。毎晩勝ちますが、切り刻まれても再生し、翌晩また現れます。
アペプを呪う儀式とはどういうものですか。
蝋で人形を作り、緑のインクで名を書き、唾を吐いて踏み、ナイフで刺し、焼いて灰を尿と混ぜます。日の出前に毎日行われ、朝が来ることを人の側から手伝うという考え方でした。
アペプとアポフィスは同じですか。
同じです。アポフィスはギリシャ語形で、地球接近小惑星「アポフィス」の名もここから取られています。
アペプの名前を書くとき特別な決まりがあったのですか。
ありました。蛇の記号にナイフを刺した形で書きます。エジプトでは書かれたものが力を持つと考えられ、そのまま書くと危険だとされたためです。
アペプと併せて覚えたい言葉・用語
マアト(mꜣꜥt/真理・秩序)
真理・正義・秩序・調和・均衡をまとめて意味する語であり、同時にそれを体現する女神の名。日本語に一語で訳せない。王の務めは「マアトを保つこと」と定義された。対義語はイスフェト(混沌)。
カー(kꜣ/生命力)
人と一緒に生まれ、死後も供物を受け取る生命力。クヌムがろくろで人を作るとき、肉体とカーの二体を同時に形作った。