愛と音楽と踊りの女神。牝牛の姿で、死者も迎え入れる。

レオン・デュボワ 「エジプト神統記」 1823年 / CC BY-SA 4.0 出典
ハトホルとは何の神様か
ハトホルはひとことで言えば両極端を一柱で持つ神です。
牝牛、または牛の角に日輪を挟んだ女性の姿で描かれます。
司るものが多岐にわたります。
愛、美、音楽、踊り、酒、出産、母性、そして外国の鉱山。
手にはシストルム(金属の音の出る楽器)を持ち、神殿では踊りと歌が捧げられました。
「西方の女主人」として、死者を迎える役目もあります。テーベ西岸の山からこの女神が顔を出す図像が、多数の墓に描かれました。
しかし、
人類を滅ぼしかけたのも、この女神です。
ラーが人間の反乱に怒り、目を放ったとき、その目がセクメトとなって人を殺し続けました。その正体がハトホルです。
愛の神と、殺戮の神が同一。
エジプト人はこれを矛盾と考えませんでした。
ハトホルのヒエログリフの表記と読み方
エジプト語では ḥwt-ḥr、「ホルスの家」を意味します。
ḥwt(家)の中に、隼(ḥr)が入っている
記号で書かれます。天空を、ホルスが住む家と見たわけです。
ギリシャ人はこの女神をアプロディテと重ねました。愛と美を司る点が共通するためです。
称号が非常に多い神です。
「西方の女主人」── 死者を迎える。
「トルコ石の女主人」── シナイ半島の鉱山を守る。
「黄金の女神」── 美と輝きを表す。
「酔いの女主人」── 祭りで酒を司る。
外国の鉱山を守る点は重要です。シナイのトルコ石鉱山、プントの交易路。
エジプト人が国外へ出るとき、この女神に祈った。
ḥwt-ḥr(フウト・ヘル)
ヒエログリフの転写。「ホルスの家」を意味する。
Ἁθώρ(ハトホル)
ギリシャ語形。日本語の「ハトホル」はこれを経由している。
nbt-jmntt(ネベト・イメンテト)
「西方の女主人」。死者を迎える側面を表す称号。
ハトホルの物語
ラーの目になる ─ 人類を滅ぼしかける
人間がラーに逆らったとき、老いた太陽神は目を放ちました。
その目がセクメトとなり、
人を殺し始めた。
荒野は血で染まります。ラーは途中で思い直しました。
このままでは、人類が絶える。
止めようとしても、女神は聞きません。
そこでラーは策を用います。
大量のビールを醸させ、赤い顔料(レッドオーカー?)を混ぜて血の色にした。
七千壺分ともいわれます。それを野に撒きました。
女神は血と思って飲み干し、酔って眠ります。
目覚めたとき、殺意は消えていました。
そして、穏やかなハトホルに戻ります。
この物語は『牝牛の書』に記され、
毎年、酔いの祭り(テヘフの祭)として再現されました。
人々は大量に飲み、音楽を鳴らし、踊りました。
音楽と酔いの祭り ─ デンデラの大祭
ハトホルの祭りは、エジプトでもっとも賑やかな祭りでした。
デンデラの神殿では、
「酔いの祭り」
が行われます。人類滅亡が酒で止められたことの再現です。
記録によれば、
参加者は意識を失うほど飲み、音楽を鳴らし、朝まで踊った。
神殿には専用の飲酒の広間があったとされます。
もう一つが「麗しき再会の祭り」です。
デンデラのハトホル像が舟に乗せられ、ナイルを遡ってエドフのホルスのもとへ運ばれる。
二週間の航行でした。沿岸の町では祝いが行われます。
到着後、二柱は十四日間ともに過ごし、また帰ります。
神像が実際に旅をする祭り。
神話が、年中行事として運用されていたわけです。
七人のハトホル ─ 運命を告げる
子が生まれると、
七人のハトホル
が現れて、その子の運命を告げるとされました。
『運命の定められた王子』という物語が残っています。
王子が生まれたとき、七人のハトホルが宣言します。
この子は、ワニか蛇か犬によって死ぬ。
王は子を石造りの家に閉じ込めて育てますが、子は外の世界を求め、旅に出ます。
物語はパピルスの末尾が失われており、結末が分かりません。
三千年前の物語が、途中で切れている。
研究者のあいだで結末が議論され続けています。
七人のハトホルは、赤いリボンを持つとされました。悪しきものを縛る力があると信じられ、
護符として実際に使われました。
運命を告げる女神たちという発想は、ギリシャのモイライ?、北欧のノルンと構造が似ています。
西方の女主人 ─ 死者を迎える
ハトホルには、死と結びつく面があります。
「西方の女主人」という称号です。西は日没の方角、つまり死者の国。
テーベ西岸の墓には、
山の斜面から牝牛が顔を出している図
が多数描かれました。死者を迎えに来た姿です。
デイル・エル・バハリ(ハトシェプスト女王葬祭殿)には、
ハトホルの礼拝堂
があり、牝牛の像が置かれていました。女王がその乳を飲む場面が刻まれています。
死者は「ハトホルの供物」を受けるとされ、
墓の供物文にこの女神の名が繰り返し現れます。
愛と音楽の女神が、同時に死者を迎える。
エジプト人は、死を敵対的なものと考えていなかった。
そのことがよく表れています。
デンデラの神殿 ─ 天井に星が残る
デンデラのハトホル神殿は、エジプトでも屈指の保存状態です。
特筆すべきは、
天井の彩色が残っていること。
煤で覆われていたものが清掃され、紺と金の星空が現れました。エジプトの神殿で当時の色を実感できる数少ない場所です。
柱の頭部には、
ハトホルの顔が四方に彫られている。
「ハトホル柱」と呼ばれる独特の形式です。
デンデラの黄道帯(天井の星座図)も有名です。現在はルーヴル美術館にあり、神殿には複製が置かれています。
また、外壁には
クレオパトラ7世とカエサリオンの浮き彫り
が刻まれています。現存する数少ないクレオパトラの図像です。
地下室には「デンデラの電球」と俗称される浮き彫りがあり、俗説の題材になりますが、蓮から出るヘビを描いた宗教図像と解されています。
ハトホルの家系図と家族
ハトホルの性格と人物像
ハトホルは、振れ幅の大きい神です。
音楽、酒、踊り、愛、出産。
一方で、
人類を滅ぼしかけた殺戮者であり、死者を迎える者。
エジプト人は、これを別々の神に分けませんでした。
穏やかな面と荒ぶる面は、同じものの表と裏である。
この考え方が、エジプトの神観の特徴です。ハトホルとセクメトは同じ女神の二つの状態にすぎません。
ビールで鎮められるという筋も重要です。
暴力を、暴力で止めていない。
酒と祭りで解決しました。そして、それが年中行事になりました。
祭りとは、神を鎮めるための実務だったわけです。
三千年、この女神はエジプトでもっとも人気のある神の一柱であり続けました。
ハトホルを祀った神殿と遺跡
ハトホルの神殿は、エジプト本土だけでなく国外にもあります。
シナイ半島のトルコ石鉱山、ヌビア、そして交易路の要地。
この女神が「外国の女主人」だったためです。
エジプト人が国境の外へ出るとき、連れて行く神。
国内ではデンデラが中心で、保存状態のよさから、古代の神殿がどう彩色されていたかを知る基準になっています。
デンデラのハトホル神殿(Temple of Dendera)
天井の彩色が残る大神殿
エジプトで最も保存状態の良い神殿の一つです。
最大の見どころが、
清掃によって現れた天井の彩色。
紺と金の星空、黄道帯、ヌト女神の図が、当時の色のまま残っています。
柱はハトホル柱。柱頭の四方にこの女神の顔が彫られています。
デンデラの黄道帯(現ルーヴル美術館)
もここから持ち出されたものです。神殿には複製があります。
外壁にはクレオパトラ7世とカエサリオンの浮き彫りがあり、現存する数少ないクレオパトラの図像として知られます。
屋上に上がれるのも特徴で、オシリスの復活儀礼の礼拝堂があります。
ルクソールから車で約2時間。アビドスと合わせた一日ツアーが一般的。
デイル・エル・バハリ(Deir el-Bahari)
ハトホル礼拝堂を持つ女王の葬祭殿
デイル・エル・バハリの住所: エジプト ルクソール県 デイル・エル・バハリ
デイル・エル・バハリの祀られた神: ハトホル・アメン・アヌビス
デイル・エル・バハリに残るもの: テラス式葬祭殿・ハトホル礼拝堂
ハトシェプスト女王の葬祭殿です。断崖を背にした三層のテラスが特徴的で、古代建築のなかでも屈指の設計とされます。
南側にハトホルの礼拝堂があります。
ハトホル柱が並び、女王が牝牛の乳を飲む場面が刻まれている。
王権をこの女神が保証する、という構図です。
壁面にはプント国への交易遠征が詳細に描かれています。船、積荷、現地の家。
古代の交易記録として貴重。
この遠征も、「トルコ石の女主人」としてのハトホルの加護のもとに行われました。
女王の死後、トトメス3世によって名前が削られた箇所が多数あります。
ルクソール西岸。王家の谷と近く、合わせて回れる。世界遺産。
セラビト・エル・カディム(Serabit el-Khadim)
トルコ石鉱山のハトホル神殿
セラビト・エル・カディムの住所: エジプト 南シナイ県 セラビト・エル・カディム
セラビト・エル・カディムの祀られた神: ハトホル(トルコ石の女主人)
セラビト・エル・カディムに残るもの: 神殿址・鉱山・碑文
シナイ半島のトルコ石鉱山にある神殿です。
エジプト本土から遠く離れた山中にあり、
鉱山労働者と遠征隊が、この女神に祈った。
多数の奉納碑が残り、遠征の記録が読めます。
この遺跡が決定的に重要なのは、
原シナイ文字
がここで発見されたことです。ヒエログリフ?を簡略化した文字で、
アルファベットの起源につながると考えられている。
刻んだのは、エジプト人ではなくセム系の労働者でした。
現在ヨーロッパで使われる文字の祖先が、ハトホル神殿の落書きから出ている。
この主張は研究者のあいだで広く支持されています。
シナイ半島内陸。四輪駆動でのアクセスが必要な僻地。
ハトホルが現代に残した痕跡
ハトホルにまつわるものは、文字の歴史にまで及びます。
原シナイ文字: セラビト・エル・カディムのハトホル神殿で発見された文字。アルファベットの起源につながると考えられている。
デンデラの黄道帯: 神殿天井の星座図。現在はルーヴル美術館にあり、古代エジプトの天文知識を示す資料として知られる。
ハトホル柱: 柱頭の四方に女神の顔を彫った独特の柱形式。エジプト建築の代表的な意匠。
シストルム: 振ると金属音が出る楽器。この女神の象徴で、神殿儀礼で用いられた。
ハトホルが司るもの
愛・美
ギリシャ人はアプロディテと重ねた。「黄金の女神」の称号を持つ。
音楽・踊り
シストルムを持つ。神殿では歌と踊りが捧げられた。
酒・祭り
「酔いの女主人」。デンデラの酔いの祭りは人類滅亡が酒で止められたことの再現。
出産・母性
七人のハトホルが子の運命を告げる。誕生殿(マンミシ)の主。
外国の鉱山
「トルコ石の女主人」。シナイ半島の鉱山を守り、国外へ出る者が祈った。
死者を迎える
「西方の女主人」。テーベ西岸の山から顔を出す牝牛の姿で墓に描かれた。
ハトホルが登場するゲーム・アニメ
「エジプトのアプロディテ」として扱われることが多い神です。
しかし原典では、
人類を滅ぼしかけた側面
が同じ女神のものです。この振れ幅は、創作でほとんど再現されません。
また、外国の鉱山を守る神という実務的な役割も、まず触れられません。
ハトホルが登場するゲーム
ハトホルが登場するアニメ・漫画・映像
古代エジプト展の図録
ハトホル柱とデンデラの天井画が定番の図版です。
Amazonのアソシエイトとして、当サイトは適格販売により収入を得ています。
ハトホルについてよくある質問
ハトホルは何の神様ですか。
愛・美・音楽・踊り・酒・出産を司る女神です。同時に「西方の女主人」として死者を迎え、「トルコ石の女主人」として外国の鉱山を守りました。
ハトホルとセクメトは同じ神ですか。
同じ女神の二つの状態です。ラーが人類に怒って放った目がセクメトとなって殺戮し、ビールで酔わされて眠ったあと、穏やかなハトホルに戻りました。
ハトホルの名前の意味は何ですか。
「ホルスの家」です。「家」の記号のなかに隼が入った形で書かれ、天空をホルスが住む家と見た表現です。
七人のハトホルとは何ですか。
子が生まれたとき現れて運命を告げる女神たちです。『運命の定められた王子』という物語では「ワニか蛇か犬によって死ぬ」と宣言されます。この物語はパピルスの末尾が失われ、結末が分かっていません。
酔いの祭りとは何ですか。
デンデラで行われたハトホルの祭りです。人類滅亡がビールで止められたことの再現で、参加者は意識を失うほど飲み、音楽を鳴らして踊りました。
デンデラ神殿の見どころは何ですか。
清掃によって現れた天井の彩色です。紺と金の星空が当時の色のまま残っており、エジプトの神殿で当時の色を実感できる数少ない場所です。ハトホル柱と、外壁のクレオパトラ7世の浮き彫りも知られます。
ハトホルと併せて覚えたい言葉・用語
カー(kꜣ/生命力)
人と一緒に生まれ、死後も供物を受け取る生命力。クヌムがろくろで人を作るとき、肉体とカーの二体を同時に形作った。
モイライ(Μοῖραι)
運命の三女神。クロトが命の糸を紡ぎ、ラケシスが長さを測り、アトロポスが断つ。ゼウスですら逆らえない。
ヒエログリフ(Hieroglyph/神聖文字)
古代エジプトの絵文字。エジプト語では「神の言葉(メドゥ・ネチェル)」と呼ばれた。子音だけを書き母音は書かないため、当時の正確な発音は分かっていない。西暦394年の碑文を最後に使われなくなり、1822年にシャンポリオンが解読するまで千四百年以上読めなかった。