砂漠と混沌の神。兄を殺した一方、太陽の船を守り続ける。

「セト・アヌビス・ベス(ウェルズ『世界史大系』)」 / パブリックドメイン 出典
セトとは何の神様か
セトのヒエログリフの表記と読み方
エジプト語では stẖ。時代によって「セテク」「ステフ」「スティ」と読みが変わりました。日本語の「セト」はギリシャ語形です。
ギリシャ人はこの神をテュポーンと同一視しました。神々に刃向かう混沌という点が共通するためです。
「セト動物」の正体は、二百年以上議論されています。候補として挙がるのは、
ツチブタ、オリックス、ロバ、ジャッカル、絶滅した動物、そして空想上の獣。
現在は「特定の動物ではなく、異質さを表すために作られた姿」とする見方が有力です。どの動物でもないこと自体が、この神の性格を表しています。
stẖ(セテク)
ヒエログリフの転写。「セト」「ステフ」「スティ」など、時代により読みが変わる。
Σήθ(セト)
ギリシャ語形。日本語の「セト」はこれを経由している。
Τυφών(テュポン)
ギリシャ人がこの神をギリシャ神話の怪物テュポーンと同一視した。混沌を司る点が共通するため。
セトの物語
- 生まれ方が異常 ─ 母の脇腹を破る
- 兄を殺す ─ 二度の殺害
- ホルスと八十年争う ─ 法廷と決闘
- レタスで裏をかかれる ─ 神々の前での証言
- 太陽の船を守る ─ 敵ではない側面
- 悪神にされる ─ 千年かけた評価の反転
生まれ方が異常 ─ 母の脇腹を破る
兄を殺す ─ 二度の殺害
ホルスと八十年争う ─ 法廷と決闘
オシリスの子ホルスが成人すると、王位をめぐる争いが始まりました。
八十年続いたと記録されます。
争いは神々の法廷に持ち込まれました。しかし決着しません。ラーはセトを支持し、他の神々はホルスを支持しました。
法廷の外でも争います。
カバに変身しての水中の競争。 石の船での競走(セトは石を実際の石で作り、ホルスは木に漆喰を塗って石に見せかけて勝ちます)。
そして、もっとも激しい場面で、
ホルスは左目を失い、セトは睾丸を失った。
失われたホルスの目はトートが癒し、ウジャトの目となります。
最終的に、女神ネイトの助言により法廷が裁定を下しました。
玉座はホルスに。セトには財と、二人の異国の女神を与えよ。
セトは敗れ、砂漠と異国の神として位置づけられます。
レタスで裏をかかれる ─ 神々の前での証言
八十年の争いのなかで、もっとも生々しい場面です。パピルス『ホルスとセトの争い』に記されています。
ある夜、セトはホルスを自分の家に招きました。和解を装った申し出でしたが、狙いは別にあります。
相手を組み敷いた事実を作り、法廷で「支配した側」だと主張するため。
エジプトでは、それが優位を示す証拠になると考えられていました。
しかしホルスは、母イシスの助言を受けていました。セトの種を手で受け止め、水に捨てます。
次にイシスは、逆の手を打ちました。
セトの畑にはレタスが植えられていました。この植物は、
切ると乳白色の樹液が出るため、生殖の力を象徴していた。
セトの好物でもあります。イシスは、
息子の種をレタスに塗り、それをセトに食べさせた。
後日、法廷でセトは高らかに主張します。
「私はホルスを支配した」
そこでトートが、両者の種に呼びかけました。
セトの種は川の水のなかから答え、ホルスの種は──
セトの体のなかから、答えた。
主張は完全に逆転します。 神々の前で恥をかいたのはセトのほうでした。
力で勝とうとして、策で敗れている。
この筋は、セトとイシスの性格をもっともよく表す場面です。
太陽の船を守る ─ 敵ではない側面
ここが、この神を理解する上でもっとも重要な点です。
セトは、太陽の船に乗っています。
毎夜、冥界を進むラーの船を大蛇アペプが襲います。そのとき、
船首に立ち、槍を構えているのがセトである。
他の神が呪文を唱えるなか、実際に突くのはこの神です。
理由は明快です。
アペプに対抗できるほどの暴力を持つのは、セトだけだから。
混沌には混沌をぶつける、という構図です。
死者の書?には、
セトなくして、太陽は昇らない。
という趣旨の記述があります。
兄殺しの神が、世界の存続に不可欠である。 この矛盾を、エジプト人はそのまま抱えていました。善悪で神を分けていなかったのです。
悪神にされる ─ 千年かけた評価の反転
セトの評価は、時代とともに変わりました。
初期王朝時代、この神は王権の一部でした。第2王朝のペルイブセン王は、ホルスではなくセトを王名の上に置いています。
新王国時代、ラメセス朝はデルタ地方の出身で、
王が名に「セト」を冠した。 セティ1世、セティ2世。
「セトの者」という意味です。最高位の王が、この神の名を名乗っていました。
変化は末期王朝時代に起きます。
ペルシャ、ギリシャ、ローマと異民族の支配が続いた。
セトは「異国の神」でした。そのため、
侵略者と結びつけられ、悪の側へ追いやられた。
神殿から名が削られ、像が壊されます。ギリシャ人はこの神をテュポーンと同一視しました。
現在知られる「悪神セト」の像は、この最後の千年で作られたものです。
セトの家系図と家族
セトの性格と人物像
セトは、必要とされた暴力です。
兄を殺し、遺体を切り刻み、甥と八十年争いました。擁護できる神ではありません。
それでいて、太陽の船で毎夜アペプを突いています。 この神がいなければ朝は来ません。
世界を壊す力が、世界を守るのにも使われる。
エジプト人は、この矛盾を解消しませんでした。
注目すべきは、砂漠の神であることです。エジプトはナイルの緑地と、その両側の広大な砂漠でできています。
砂漠は死の土地であり、同時に外敵から国を守る壁だった。
セトの性格は、この地形そのものです。危険で、しかしなくてはならない。
そして最後に、外国と結びつけられて排除されました。
異質なものへの評価が、政治情勢で反転する。
三千年の歴史を持つ文明だからこそ記録された、珍しい例です。
セトを祀った神殿と遺跡
セトの神殿は、ほとんど残っていません。
末期王朝以降に組織的に破壊されたためです。
神殿から名が削られ、像が壊され、碑文が書き換えられた。
エジプトでは名を消すことが存在を消すことでした。セトはその処置を受けた側です。
皮肉なことに、この神を最もよく伝えているのは、セティ1世という王の名です。名を削れなかった王名が、かつての評価を残しました。
オンボス(ナカダ)(Nubt / Naqada)
セト信仰の古い中心地
セト信仰の最古の中心地とされます。エジプト語名ヌブトは「黄金の町」を意味し、東の金鉱への入口でした。
ここは考古学的にも重要です。先王朝時代の「ナカダ文化」の名は、この地に由来します。
エジプト文明が国家になる前の段階が、ここから明らかになりました。
セトがもとは上エジプトの有力な神だったことを示す遺跡です。のちに下エジプトのホルスと対になり、上下エジプトの対立を表す神話へ発展したという説があります。
ルクソール北方。遺構は乏しく、専門的な見学地。
アビドスのセティ1世神殿(Temple of Seti I)
「セトの者」を名乗った王の神殿
アビドスのセティ1世神殿の住所: エジプト ソハーグ県アビドス
アビドスのセティ1世神殿の祀られた神: オシリス・セティ1世
アビドスのセティ1世神殿に残るもの: 彩色が残る浮き彫り、王名表
セティ1世の名は「セトの者」を意味します。
興味深いのは、その王がオシリスの最大の聖地に神殿を建てたことです。オシリスを殺した神の名を持つ王が、です。
当時、セトは悪神ではなかったことの証拠とされます。
ただし、アビドスの碑文では王名の「セト」の記号が、オシリスを表す記号に置き換えられている箇所があります。場所によって配慮したわけです。
浮き彫りの彩色がよく残っており、エジプト美術の最高水準とされます。
ルクソールから車で約3時間。デンデラと合わせて回る一日ツアーが一般的。
セトが現代に残した痕跡
セトの名は、王名と、正体不明の獣として残りました。
セティ1世・セティ2世: 「セトの者」を意味する王名。この神が悪神ではなかった時代の証拠として重要。
セト動物: 長い鼻先と角ばった耳を持つ正体不明の獣。二百年以上議論が続き、特定の動物ではなく異質さを表すために作られた姿とする見方が有力。
テュポーンとの同一視: ギリシャ人がこの神をギリシャ神話最大の怪物と重ねた。混沌を司る点が共通するため。
「名を削る」という処罰: エジプトでは名を消すことが存在を消すことだった。セトの碑文が削られたのは、この考え方による。
セトが司るもの
力・戦い
荒々しい力を司る。太陽の船を守る役目もこの力による。
砂漠と異国
砂漠、嵐、外国を司る。隊商や鉱山労働者が祈った。
混沌への対抗
大蛇アペプに対抗できる唯一の神とされた。
セトが登場するゲーム・アニメ
ほぼ例外なく悪役として描かれます。 原典の「太陽の船を守る」側面や、「王が名に冠した時代がある」ことは、まず扱われません。
創作が受け継いだのは、末期王朝以降に作られた像です。
セトが登場するゲーム
セトが登場するアニメ・漫画・映像
エジプト神話を扱った書籍
「悪神セト」として紹介されることがほとんどですが、太陽の船を守る側面に触れた本は限られます。
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セトについてよくある質問
セトは何の神様ですか。
砂漠・嵐・異国・混沌を司る神です。兄オシリスを殺した一方、太陽の船に乗って大蛇アペプと戦い、朝が来ることを保証する役目も担います。
セトは悪い神様ですか。
時代によります。初期王朝から新王国時代までは王権の一部で、セティ1世のように王が名に冠しました。悪神とされたのは末期王朝以降で、異民族の支配と結びつけられたためです。
セト動物とは何ですか。
セトの姿として描かれる正体不明の獣です。長い鼻先と角ばった耳を持ちます。ツチブタ、オリックス、ロバなど候補が挙がりますが特定されておらず、異質さを表すために作られた姿とする見方が有力です。
なぜセトはオシリスを殺したのですか。
記録によって異なります。王位への嫉妬とも、妻ネフティスがオシリスと通じたためとも伝えられます。
セトはホルスに負けたのですか。
負けました。八十年の争いののち、女神ネイトの助言により神々の法廷が玉座をホルスに与え、セトには財と二人の異国の女神を与えると裁定しました。
セトとレタスの話とは何ですか。
セトがホルスを組み敷いて「支配した」と法廷で主張しようとした際、イシスが息子の種を塗ったレタスをセトに食べさせた話です。法廷でトートが両者の種に呼びかけると、ホルスの種はセトの体のなかから答え、主張が完全に逆転しました。パピルス『ホルスとセトの争い』に記されています。
なぜレタスが使われたのですか。
古代エジプトのレタスは背が高くまっすぐ立ち、切ると乳白色の樹液が出たため、生殖の力を象徴する植物とされていました。豊穣の神ミンに捧げられる植物でもあり、セトの好物という設定にもなっています。
セトはなぜ太陽の船に乗っているのですか。
大蛇アペプに対抗できるほどの力を持つのがセトだけだからです。混沌には混沌をぶつけるという構図で、この神がいなければ朝は来ないとされました。
セトと併せて覚えたい言葉・用語
プルタルコス(Plutarch)
ギリシャの著述家。『イシスとオシリスについて』を書いた。オシリス神話が一続きの物語として読めるのはこの書だけだが、ギリシャ語で、神話の成立から二千年以上あとの記録である点に注意が要る。
死者の書(ししゃのしょ)
正しくは「日のもとに出現するための書」。冥界を通るための呪文集で、パピルスに書いてミイラとともに納めた。名前の欄を空けた既製品が売られており、購入者の名を書き入れて使った。