世界が生じる前からある原初の水。すべての始まりであり、終わり。

「太陽の船を掲げるヌン」 / パブリックドメイン 出典
ヌンとは何の神様か
ヌン?はひとことで言えば創造の前にある状態です。
世界が始まる前、あったのは、
暗く、動かず、果てのない水。
これがヌンです。
創造神ではありません。何も作りません。
しかし、
アトゥムはこの水のなかで自らを生み、ここから原初の丘が現れた。
そのため「父たちの父」「最も古い者」と呼ばれます。
決定的な特徴があります。
神殿がない。神官がいない。祭りもない。
祀られませんでした。動かないもの、働かないものだからです。
そして、消えてもいません。
世界の外側は、いまもヌンである。
世界が終わるとき、
すべては再びこの水に戻ります。
ヌンのヒエログリフの表記と読み方
エジプト語では nnw。水を表す三本の波線の記号で書かれます。
日本語ではヌン、ヌウなどと表記されます。
ヘルモポリスの八柱神では、対になる女性形ナウネトとともに一組を成します。八柱神は、
ヌンとナウネト(水)、ケクとカウケト(闇)、フフとハウヘト(無限)、アメンとアマウネト(不可視)
という四組の男女です。
いずれも「まだ何もない状態」を四つに分けたもの。
注意すべき点があります。
ヌンは「混沌」ではありません。
ギリシャのカオスと訳し重ねられることがありますが、
カオスが「裂け目・空隙」なのに対し、ヌンは「満ちた水」。
何もないのではなく、何も分かれていない状態です。
nnw(ヌウ/ヌン)
ヒエログリフの転写。「水」を表す三本の波線の記号で書かれる。
nwnt(ナウネト)
女性形。ヘルモポリス八柱神では、ヌンと対をなす配偶者として扱われる。
Νοῦν(ヌン)
ギリシャ語形。
ヌンの物語
何も分かれていない ─ 創造の前
祀られなかった神 ─ 神殿がない理由
ヌンには、
神殿がありません。神官もいません。祭りもありません。
エジプトでは、川も、風も、言葉も、認識も神になりました。それでもこの存在だけは祀られません。
理由は明快です。
何もしないから。
エジプトの神は、働くものでした。太陽を運び、増水を送り、死者を裁き、道を開く。
祈れば応える。だから祀る。
ヌンは応えません。動かないことが本質だからです。
ただし、まったく無視されたわけではありません。
神殿の聖池は、この水を表しています。
カルナックの聖池も、デンデラの聖池も、
原初の水を再現したもの。
神官は儀式の前にここで身を清めました。
創造の前の状態に一度戻ってから、神の前に出る。
世界の外側 ─ いまも取り囲んでいる
重要なのは、ヌンが過去のものではないことです。
エジプト人の理解では、
世界は、ヌンのなかに浮かんでいる泡のようなもの。
創造によって水が押しのけられ、そこに世界ができた。
その外側は、いまもヌンである。
だから、
地下水も、ナイルの増水も、ヌンから来る。
と考えられました。井戸を掘って水が出るのは、世界の底に触れたからです。
太陽が沈んで冥界を通るのも、
ヌンのなかを進んでいる
とされます。朝、東の水から昇ってくる。
この世界観は、エジプトの地形そのものでもあります。
緑地の外側は、果てのない砂漠。
世界が有限で、外側があるという感覚が一貫しています。
すべてが戻る場所 ─ 棺文書 第1130節
エジプト神話の終末を記した、数少ない文書があります。
棺文書 第1130節。アトゥム自身が語る形式です。
私が創ったものは、すべて滅びる。
世界は、再びヌンの水に戻る。
残るのは、私とオシリスだけである。
二柱は蛇の姿になって、水のなかに残るとされます。
北欧のラグナロク?のような戦いによる終末ではありません。
静かに、境目がなくなっていく。
創造が「分けること」なら、終末は「混ざり合って一つに戻ること」です。
注目すべきは、
三千年続いた文明が、自らの世界に終わりがあると記していた
ことです。
そして、その終わりが始まりと同じ状態であること。
円環として世界を捉えていた
ことが、この一節に凝縮されています。
ヌンの家系図と家族
ヌンの性格と人物像
ヌンには、意志がありません。
怒らず、喜ばず、命じず、応えません。
ただ、ある。
これがこの存在の全部です。
注目すべきは、最も古いのに、最も祀られなかったことです。
「父たちの父」と呼ばれながら、神殿を持たない。
エジプト人が神に求めたのは働くことでした。応えない相手に祈る理由がありません。
それでいて、
神殿の聖池として、毎日の儀式に組み込まれています。
神官は身を清めるたび、創造の前へ一度戻っていました。
そして、
世界の外側は、いまもヌンである。
始まりであり、外側であり、終わりでもある。
物語を持たないこの存在が、エジプトの世界観の枠そのものを作っています。
ヌンを祀った神殿と遺跡
ヌン専用の神殿は、存在しません。
かわりに、
すべての神殿の聖池が、この水を表しています。
カルナック、デンデラ、エドフ。主要な神殿には必ず聖池があります。
祀る場所ではなく、清める場所としてそこにある。
これがこの存在の位置です。
カルナック神殿の聖池(Sacred Lake of Karnak)
原初の水を表す最大の聖池
カルナック神殿の聖池の住所: エジプト ルクソール県カルナック
カルナック神殿の聖池の祀られた神: アメン=ラー・ヌン
カルナック神殿の聖池に残るもの: 石積みの人工池(約120×77メートル)
カルナック神殿群にある、エジプト最大級の聖池です。
約120メートル×77メートル。石で護岸された人工池。
この池が表すのは、
原初の水ヌン。
神官は儀式の前にここで身を清めました。
創造の前の状態に一度戻ってから、神の前に出る。
という考え方です。
神聖な水鳥(ガチョウ)が飼われていた記録もあります。
池のほとりには、アメンホテプ3世が奉納した巨大なスカラベ像が立っています。
夜の音と光のショーでは、この池が舞台になります。
カルナック神殿の見学ルート上にある。世界遺産。
ヘルモポリス(アシュムネイン)(Hermopolis Magna / Khemenu)
ヌンを含む八柱神の創世神話の地
ヘルモポリス(アシュムネイン)の住所: エジプト ミニヤー県 エル・アシュムネイン
ヘルモポリス(アシュムネイン)の祀られた神: トート・ヘルモポリス八柱神
ヘルモポリス(アシュムネイン)に残るもの: 神殿址・巨大なヒヒ像
エジプト語名クメヌは「八の町」を意味します。
ここには独自の創世神話がありました。
四組の男女(水・闇・無限・不可視)が、原初の丘と卵を生んだ。
その水にあたるのが、ヌンとナウネトです。
ヘリオポリスの九柱神?とは、別系統の創世。
都市ごとに世界の始まりが違ったことを示す重要な遺跡です。
遺跡には、アメンホテプ3世が奉納した高さ4メートルを超える花崗岩のヒヒ像が残ります。
近くのトゥーナ・エル・ゲベルには、数百万体のトキとヒヒのミイラを納めた地下墓があります。
カイロ南方約300km。ミニヤーが拠点。
ヌンが現代に残した痕跡
ヌンの発想は、建築と儀礼に残りました。
神殿の聖池: 原初の水を再現した人工池。神官は儀式の前にここで身を清めた。カルナックのものが最大級。
ヘルモポリス八柱神: 水・闇・無限・不可視の四組の男女。ヌンとナウネトが水にあたる。ヘリオポリスとは別系統の創世神話。
棺文書 第1130節: 世界が再びヌンの水に戻り、アトゥムとオシリスだけが蛇の姿で残るという記述。エジプトの終末観を伝える貴重な文書。
「世界の外側」という感覚: 地下水も増水もヌンから来ると考えられた。世界が有限で外側があるという世界観は、緑地と砂漠というエジプトの地形とも重なる。
ヌンが司るもの
(専用の神殿はない)
ヌンだけを祀る神殿も神官も祭りもない。各神殿の聖池がこの水を表し、そこで祈られた。
清め
神殿の聖池がこの水を表す。神官は儀式の前にここで身を清めた。
ヌンが登場するゲーム・アニメ
「エジプト神話の最高神はヌン」と紹介されることがあります。
最も古い存在であることは事実ですが、
祀られておらず、統治もしていません。
「最高神」という言葉が最も古いを指すならヌン、最も力を持ったを指すならラーやアメン=ラーです。
問いの立て方で答えが変わります。
ヌンが登場するゲーム
ヌンが登場するアニメ・漫画・映像
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ヌンについてよくある質問
ヌンとは何ですか。
世界が生じる前からある、暗く動かない原初の水です。創造神ではなく、創造の前にある状態そのものを指します。
ヌンはエジプト神話の最高神ですか。
「最も古い」という意味ではそうです。「父たちの父」と呼ばれます。ただし祀られておらず、統治もしていません。力を持った神という意味ではラーやアメン=ラーが最高神です。
ヌンとカオスは同じですか。
違います。ギリシャのカオスが「裂け目・空隙」なのに対し、ヌンは「満ちた水」です。何もないのではなく、何も分かれていない状態を指します。
ヌンの神殿はありますか。
ありません。動かず応えない存在のため、祈りの対象になりませんでした。かわりに、神殿の聖池がこの水を表し、神官は儀式の前にそこで身を清めました。
ヌンはいまも存在するのですか。
エジプト人の理解では存在します。世界はヌンのなかに浮かんでいるとされ、世界の外側は今もヌンです。地下水もナイルの増水もここから来ると考えられました。
ヌンとナウネトの違いは何ですか。
ナウネトはヌンの女性形です。ヘルモポリス八柱神では、水・闇・無限・不可視の四組の男女のうち、水の一組として対を成します。
ヌンと併せて覚えたい言葉・用語
ヌン(Nun/原初の水)
世界が始まる前からある、暗く動かない水。ここから原初の丘が現れて創造が始まり、世界が終わるときはすべてここへ戻る。
ベンベン(Benben/原初の丘)
ヌンから最初に現れた丘。ピラミッドの形と、オベリスクの先端(ベンベネト)はこれを表す。毎年ナイルの増水が引いたあとに泥の丘が現れる光景と重なっている。
ラグナロク(Ragnarök)
北欧神話の終末。神々と巨人が戦い、双方がほぼ全滅して世界が焼け落ち、海に沈む。そののち新しい大地が浮かび上がる。
九柱神(きゅうちゅうしん/エネアド)
ヘリオポリスの神学における九柱の系譜。アトゥム、シュー、テフヌト、ゲブ、ヌト、オシリス、イシス、セト、ネフティス。ただしメンフィスやヘルモポリスには別系統の創世神話があり、併存していた。