シストラムを鳴らす幼子の神。ハトホルとホルスの子。
イヒとは何の神様か
イヒのヒエログリフの表記と読み方
エジプト語では jḥy。日本語ではイヒ、イヒィ、イヘイと表記が揺れます。
名の解釈は二つあります。
シストラムを奏でる者、と読む説。
子牛、と読む説。
どちらもこの神に当てはまります。 手にシストラムを持ち、母は牝牛の姿をとるハトホルです。
シストラムを表すエジプト語 sšš は、
楽器を振ったときの音を、そのまま写した語
とされます。しゃらしゃらという音です。
注意したいのが、幼子の神の見分けです。
ホルスの幼子形(ハルポクラテス)。
ネフェルテム。
イヒ。
いずれも、指を口に当てた裸の子どもとして描かれます。見分けは持ち物と冠です。
シストラムを持っていれば、イヒ。
頭上に蓮があれば、ネフェルテム。
jḥy(イヒ)
ヒエログリフの転写。「シストラムを奏でる者」あるいは「子牛」と解される。
sšš(セシェシュ)
シストラムを表す語。楽器を振ったときの音を写したものとされる。
Ἁρποκράτης(ハルポクラテス)
幼子の神を指すギリシャ語形。もとはホルスの幼子形を指すが、イヒと図像が近く混同されやすい。
イヒの物語
シストラム ─ 音そのものが神になる
シストラムは、エジプトの神殿に欠かせない楽器でした。
手に持つ枠に、金属の棒を横に渡す。棒には小さな円板が通してある。
振ると、円板が触れ合って細かく鳴る。
単純な構造で、大きな音は出ません。
この楽器は、女性の神官が振りました。
神像の前で、供物を捧げるとき。行列が進むとき。
枠の部分に、ハトホルの顔が彫られることが多くあります。楽器そのものが、女神の姿をしています。
音には、意味が与えられました。
音が、荒ぶる力をなだめる。
音が、神を喜ばせる。
エジプトには、荒ぶる女神をなだめるという主題が繰り返し現れます。セクメトを酒で止めた話、砂漠へ去ったテフヌトを連れ戻す話。そのとき使われるのが、
音楽と、踊りと、酒
でした。
イヒは、この音の側にいる神です。
楽器を鳴らす子ども。
音を出すという行為そのものが、神格になっています。
デンデラの誕生殿 ─ 毎年生まれ直す子
エジプト政府の案内は、デンデラの神殿を
エジプトでもっとも保存状態のよい神殿のひとつ
とし、入口の六本のハトホル柱を挙げています。
この神殿の主神が、ハトホルです。そして、その子がイヒです。
大きな神殿には、誕生殿と呼ばれる付属の建物が置かれました。
神の子が生まれる場面を、繰り返し描くための建物。
ここで生まれるのが、この神です。
重要なのは、毎年繰り返されることです。
一度きりの誕生ではない。年ごとの祭で、そのつど生まれ直す。
エジプトの祭は、
物語を、実際に演じ直す
形をとります。オシリスの祭でも、殺害と埋葬と復活が外で再現されました。
誕生殿の場面には、産室に立つ神々が並びます。
ロクロを回すクヌム。命を吹き込むヘケト。宣言するメスケネト。
王の誕生と、神の子の誕生が、同じ図式で描かれます。 王が神の子であることを示す仕組みです。
よき出会いの祭 ─ 母が船で夫に会いに行く
デンデラでは、年に一度、大きな祭が行われました。
ハトホルの神像を船に載せ、川を南へ下らせる。
向かう先は、エドフ。
エジプト政府の案内によれば、エドフの神殿はホルスに捧げられ、ナイルの西岸にあります。
そこで、
ハトホルとホルスが出会う。
「よき出会いの祭」と呼ばれました。神像同士が、実際に旅をして会いに行きます。
行程には日数がかかり、途中の町でも儀式が行われました。到着すると、
二柱の神像が、同じ神殿で数日を過ごす。
そして、この夫婦の子とされるのがイヒです。
祭のあと、母は自分の町へ帰り、やがて子が生まれる。
という筋書きになります。
エジプトの祭が興味深いのは、
神話を語るのではなく、実行する
点です。船を出し、川を下り、数日滞在して帰る。 実際の移動と日程を伴います。
神話と行事が、同じものでした。
シンボル ─ 指を口に当てる子どもの形
この神を見分ける形は、二つあります。
一つめがシストラムです。
手に持った、振ると鳴る楽器。
これを持っていれば、まずイヒです。
二つめが子どもの姿です。
裸。指を口に当てる。側頭部に髪を一房垂らす。
この三点は、エジプトで子どもを表す決まった記号でした。
注意が必要なのは、同じ形の神が複数いることです。
ホルスの幼子形。ネフェルテム。イヒ。
いずれも同じ姿勢で描かれます。見分けは持ち物です。
シストラムならイヒ、蓮ならネフェルテム。
もうひとつ、この「指を口に当てる」形には後日談があります。
ギリシャ人がこの姿を見て、
静かにせよ、という仕草
と読み違えました。そこから、幼子の神が沈黙と秘密の神としてローマ世界へ広まります。
誤読が、新しい神を生みました。 エジプトの図像が外へ出るときに、しばしば起きたことです。
イヒの家系図と家族
イヒの性格と人物像
イヒは、にぎやかな神です。
楽器を鳴らし、喜びを表す。
戦いません。裁きません。冥界にも関わりません。エジプトの神としては、めずらしく明るい役目だけを持っています。
注目すべきは、音そのものが神になっていることです。
楽器を振ったときの、しゃらしゃらという音。
エジプトには、荒ぶる力を音でなだめるという考え方がありました。セクメトを止めるのも、テフヌトを連れ戻すのも、音楽と踊りと酒です。この神は、その中心にいます。
もうひとつ、この神は毎年生まれ直します。
一度きりの誕生ではない。祭のたびに、そのつど生まれる。
エジプトの祭は、物語を語るのではなく実行します。 船を出し、川を下り、神像が会いに行きます。
神話と行事が、同じものでした。 この神は、その仕組みのなかで生まれ続けた存在です。
イヒを祀った神殿と遺跡
イヒ単独の神殿は、ありません。
母ハトホルの神殿の、誕生殿にいる。
という形が基本です。子の神は、独立した聖地を持たないことが多くあります。
ネフェルテムがメンフィスでプタハの神殿に同居したのと、同じ形です。
そのため、この神を訪ねるなら
デンデラとエドフ
の組み合わせになります。母の町と、父の町です。
年に一度の祭で、この二つが川でつながれました。神殿を二つ見ることで、この神の由来が分かります。
デンデラ神殿(Temple of Dendera)
イヒが生まれるとされた神殿
エジプト政府の案内は、この神殿を
エジプトでもっとも保存状態のよい神殿のひとつ
とし、入口の六本のハトホル柱と天井の天文の彫刻を挙げています。
主神はハトホル、その子がイヒです。
境内には誕生殿が置かれ、この子が生まれる場面が繰り返し刻まれています。
ロクロを回すクヌム。命を吹き込むヘケト。宣言するメスケネト。
産室に立つ神々が並ぶ、情報量の多い浮き彫りです。
柱の上部に彫られたハトホルの顔は、シストラムの枠と同じ形をしています。
建物そのものが、楽器の形をとっている。
という見方もされます。
ルクソールから車で行ける。アビドスと合わせた一日の行程が一般的。
エドフ神殿(Temple of Edfu)
母が船で会いに行った先
エジプト政府の案内は、この神殿をホルスに捧げられたものとし、ナイルの西岸にあると記しています。
イヒにとって重要なのは、父の神殿であることです。
年に一度、
デンデラのハトホルの神像が船に載せられ、この神殿へ運ばれた。
「よき出会いの祭」です。神像同士が、実際に旅をして会いに行きました。
到着すると二柱は同じ神殿で数日を過ごし、母は自分の町へ帰ります。そして、
やがて子が生まれる。
という筋書きになります。
この神殿は保存状態がきわめてよく、
祭の手順を記した碑文
が壁に長く刻まれています。何を、どの順で行ったかが読み取れます。
ルクソールとアスワンのあいだ。クルーズの寄港地として立ち寄ることが多い。
イヒが現代に残した痕跡
イヒの姿は、誕生殿の浮き彫りと、シストラムの形に残りました。
シストラム: 振ると細かく鳴る手持ちの楽器。枠にハトホルの顔が彫られることが多く、女性の神官が神殿の儀式で振り鳴らした。
デンデラの誕生殿: 神の子が生まれる場面を描くための建物。産室に立つ神々が並び、王が神の子であることを示す図式にもなっている。
よき出会いの祭: ハトホルの神像を船でエドフへ運び、ホルスと会わせる年ごとの祭。神話を語るのではなく実行する形をとった。
指を口に当てる形: エジプトで子どもを表す記号。ギリシャ人がこれを「静かにせよ」の仕草と読み違え、沈黙と秘密の神が生まれた。
イヒが司るもの
音楽
シストラムを鳴らす神。神殿の儀式で女性の神官が振り鳴らした楽器を担う。
喜び
音と踊りによって荒ぶる力をなだめる、という考え方の中心にいる。
子の守り
幼子の姿で描かれ、誕生殿で毎年生まれ直す。
祭の成就
よき出会いの祭で生まれるとされ、年ごとの行事と結びつく。
イヒが登場するゲーム・アニメ
まず登場しません。
ハトホルの子という位置づけで、単独で語られることがほとんどありません。
しかし、
音そのものを神にした
という点は、エジプトの神の作られ方として重要です。荒ぶる力を音でなだめるという考え方は、セクメトやテフヌトの物語にも通じます。楽器を知ると、他の神話も読みやすくなります。
イヒが登場するゲーム
イヒが登場するアニメ・漫画・映像
古代エジプト展
シストラムの実物が展示されることがあり、その解説でこの神が触れられます。
エジプトの音楽を扱った書籍
神殿の儀式で使われた楽器の説明で、この神の名が引かれます。
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イヒについてよくある質問
イヒは何の神様ですか。
シストラムという楽器を鳴らす幼子の神です。ハトホルとホルスの子とされ、音と喜びを担います。デンデラの神殿が中心地です。
シストラムとは何ですか。
枠に金属の棒を渡し、そこに小さな円板を通した手持ちの楽器です。振ると細かく鳴ります。神殿の儀式で女性の神官が振り鳴らし、枠の部分にハトホルの顔が彫られることが多くあります。
ホルスの幼子形と見分けがつきません。
持ち物を見てください。シストラムを持っていればイヒ、頭上に蓮があればネフェルテムです。どれも裸で指を口に当て、側頭部に髪を垂らした子どもの姿で描かれます。この三点はエジプトで子どもを表す決まった記号でした。
よき出会いの祭とは何ですか。
年に一度、デンデラのハトホルの神像を船に載せてエドフへ運び、ホルスと会わせる祭です。神像同士が実際に旅をして会いに行き、数日を同じ神殿で過ごしました。この夫婦の子とされるのがイヒです。
なぜ音が神になるのですか。
エジプトには、荒ぶる力を音でなだめるという考え方がありました。セクメトを酒で止めた話、砂漠へ去ったテフヌトを音楽と踊りで連れ戻す話が代表です。イヒは、その音の側にいる神です。
イヒの神殿はどこにありますか。
単独の神殿はありません。母ハトホルの神殿デンデラの誕生殿にいます。子の神は独立した聖地を持たないことが多く、メンフィスのネフェルテムも同じ形です。