「沈黙を愛する女」。王家の谷の山に住み、嘘をついた者を毒で罰した。
メルセゲルとは何の神様か
メルセゲルはひとことで言えば山そのものである神です。
名は「沈黙を愛する女」を意味します。テーベ西岸、王家の谷を見下ろす山の女神です。
この山は、
自然の岩でありながら、ピラミッドの形をしている
峰です。人の手で作らなくても、そこにピラミッドがありました。王墓がこの谷に集められた理由のひとつとされます。
姿はコブラ、または蛇の頭を持つ女性。
信仰したのは、王墓を掘る職人たちです。彼らの村デイル・エル・メディーナからは、この女神への奉納碑が数多く出土しました。
碑文の内容が生々しいのです。
偽りを述べた。女神は私を罰し、目が見えなくなった。
悔いて祈ると、女神は許し、癒してくださった。
罰して、そのあと癒す。誓いを守らせるための神です。
メルセゲルのヒエログリフの表記と読み方
エジプト語では mrt-sgr。日本語ではメルセゲル、メレトセゲル、メルトセゲルと表記が揺れます。
名は二語からできています。
メルト(愛する女)+ セゲル(沈黙)。
つまり「沈黙を愛する女」。墓地の女神にふさわしい名です。
この名の解釈は、二通りあります。
静けさを好む神、と読む。
人に沈黙を求める神、と読む。
後者だとすれば、王墓の場所を口外させないという意味が含まれます。職人たちは王墓の位置を知る立場にありました。
別名の西の峰も重要です。
女神が山に住むのではなく、山そのものが女神。
mrt-sgr(メルト・セゲル)
ヒエログリフの転写。「沈黙を愛する女」を意味する。
dhnt-jmntt(デヘネト・イメンテト)
「西の峰」。この女神の別名で、王家の谷を見下ろす山そのものを指す。
tꜣ-dhnt(タ・デヘネト)
「その峰」。現在エル・クルンと呼ばれるピラミッド形の山。
メルセゲルの物語
ピラミッドの形をした山 ─ 王家の谷を選んだ理由
王家の谷を見下ろす位置に、尖った峰があります。現在はエル・クルンと呼ばれます。
この山の形が、独特です。
自然の岩でありながら、ほぼ正確なピラミッドの形をしている。
古王国の王たちは、自分でピラミッドを建てました。
石を積み、何十年もかけて、巨大な三角形を作る。
しかし新王国になると、王墓は岩を掘った地下の墓に変わります。ピラミッドを建てなくなりました。
理由はいくつも挙げられます。盗掘への対策、費用、そして
すでにピラミッドの形をした山が、そこにあった
こと。建てる必要がありませんでした。
エジプト政府の遺跡案内は、古代テーベとその墓域を世界遺産として扱い、
王墓と、それを作った職人たちの町
を構成要素として挙げています。
この山の女神が、メルセゲルです。
山が墓を見下ろし、女神が墓を守る。
地形と信仰が、完全に一致しています。
職人たちの村 ─ 個人の祈りが残った場所
王家の谷の墓を掘ったのは、専門の職人たちです。
彼らは近くの村に住みました。エジプト政府の遺跡案内は、
王墓の職人たちの町と墓であり、古代テーベのナイル西岸にある
と記しています。デイル・エル・メディーナです。
この村が、考古学上きわめて重要です。
誰が何日働き、何を受け取り、誰と争ったか。
何を祈り、何を悔いたか。
古代エジプトで、庶民の日常がこれほど細かく分かる場所は、他にありません。
記録は陶片や石片に書かれました。書き損じ、覚え書き、手紙、落書き。捨てられたものが、そのまま残りました。
そして、奉納碑です。
村の職人たちは、メルセゲルに石碑を捧げました。そこに刻まれた文が、この女神を伝えています。
私は無知な者だった。偽りを述べた。
自分の非を石に刻むという、エジプトでは珍しい形の碑文です。
罰して、癒す ─ 悔い改めの碑文
メルセゲルの奉納碑には、同じ型の話が繰り返し現れます。
私は誤った。偽りを述べた。
女神は私を罰した。病を与え、目を見えなくした。
私は悔い、祈った。
女神は許し、癒してくださった。
この順序が重要です。罰することと癒すことが、同じ神の仕事になっています。
よく知られているのが、ネフェルアブという職人の碑文です。自らの過ちを認め、罰を受け、そして許されたことを記しています。
エジプトの碑文は、ふつう
自分がいかに正しかったか
を述べます。死者の書?の否定告白?も同じ形式です。
私は盗まなかった。私は嘘をつかなかった。
それに対し、この村の碑文は
私は間違った
と書きます。書き方が反転しています。
毒蛇に噛まれること、目を病むこと。砂漠の墓地で働く職人にとって、どちらも現実の危険でした。
現実に起きたことを、女神の罰として受け止めています。 信仰が生活のなかにあるとは、こういうことです。
シンボル ─ 蛇と峰、そして村とともに消えた信仰
この女神を示す形は、二つあります。
一つめがコブラです。
鎌首をもたげた蛇。または蛇の頭を持つ女性。三つの頭を持つ姿で描かれることもある。
エジプトにはコブラの女神が複数いますが、
テーベ西岸の墓地にいるなら、メルセゲル。
と考えてほぼ間違いありません。
二つめが峰そのものです。
エル・クルン。ピラミッド形の自然の山。
王家の谷を訪れれば、いまも見上げることができます。神像を探すより、山を見るほうが早い神です。
そして、この女神には終わりがあります。
新王国が終わり、王墓が谷に作られなくなると、
職人の村は放棄されました。
人がいなくなれば、祈る者もいません。この女神の信仰の記録は、村の終わりとともに途絶えます。
一つの村と運命を共にした神。
エジプトの神の多くが三千年続いたことを思えば、きわめて珍しい消え方です。
メルセゲルの家系図と家族
メルセゲルの性格と人物像
メルセゲルは、怒る神です。
偽りを述べた者に、病と失明を与える。
エジプトの神で、これほど直接的に人を罰する記録が残る例は多くありません。
しかし、罰したあとに癒します。
悔いて祈れば、許す。
罰は目的ではなく、やり直させるための手続きでした。
注目すべきは、この神への碑文が
私は間違った
と書くことです。エジプトの碑文は、ふつう自分の正しさを述べます。書き方が反転しています。
もうひとつ、この神は山そのものです。
女神が山に住むのではなく、山が女神。
王家の谷を訪れれば、いまもその姿を見上げられます。
そして、村が終わると信仰も終わりました。
一つの村と運命を共にした神。
三千年続いた神が多いエジプトで、期限のあった神です。それでも、山は残っています。
メルセゲルを祀った神殿と遺跡
メルセゲルの聖地は、テーベ西岸の一帯に限られます。
職人の村と、その背後にそびえる峰。
全国へ広がった神ではありません。一つの村の神でした。
村に小さな礼拝所が置かれ、そこに奉納碑が捧げられました。大神殿はありません。
そして、王墓が作られなくなり村が放棄されると、
この女神の信仰の記録も途絶えます。
それでも、山は残っています。 王家の谷を訪れれば、いまもピラミッド形の峰を見上げることができます。神像より、地形のほうが長く残りました。
デイル・エル・メディーナ(Deir el-Medina)
メルセゲル信仰の中心地
デイル・エル・メディーナの住所: エジプト ルクソール(テーベ西岸)
デイル・エル・メディーナの祀られた神: メルセゲル・プタハ
デイル・エル・メディーナに残るもの: 職人の村の遺構・彩色された墓・奉納碑・小さな礼拝所
エジプト政府の遺跡案内は、この地を
王墓を作った職人たちの町と墓であり、古代テーベのナイル西岸にある
と記しています。
メルセゲルを知るなら、ここ以外にありません。 この村の職人たちが、この女神に石碑を捧げました。
私は誤った。女神は私を罰した。悔いて祈ると、許してくださった。
という型の碑文が、繰り返し出土しています。
村の遺構は、家の間取りまで分かる状態で残ります。石片や陶片に書かれた覚え書きも大量に出土し、
古代エジプトの庶民の日常がもっとも細かく分かる場所
とされます。
彩色された職人の墓も見学の対象です。
ルクソール西岸。王家の谷と合わせて回れる。
メディネト・ハブ(Medinet Habu)
職人の村と同じ西岸に立つ大神殿
エジプト政府の案内は、この建物を
ラメセス3世の葬祭殿であり、王の葬送の儀礼とアメンの礼拝を行うためのもの
と記しています。
メルセゲルの神殿ではありません。位置関係を知るために挙げます。
テーベ西岸には、王家の谷、職人の村、そして王たちの葬祭殿が並んでいる。
この一帯全体が、死者のための土地でした。
新王国の終わりに情勢が乱れると、職人たちは
この神殿の壁のなかへ避難した
と伝えられます。村が終わっていく過程が、ここに重なります。
浮き彫りの彩色がよく残る、西岸屈指の建物です。
ルクソール西岸。デイル・エル・メディーナから近い。
メルセゲルが現代に残した痕跡
メルセゲルの姿は、職人の奉納碑と、王家の谷の峰に残りました。
エル・クルンの峰: 王家の谷を見下ろす、自然の岩でできたピラミッド形の山。この女神そのものとされた。
悔い改めの碑文: 「私は誤った。女神は私を罰した。悔いて祈ると許してくださった」という型の奉納碑。自分の非を刻む、エジプトでは珍しい形式。
職人の村の記録: 石片や陶片に書かれた覚え書き、手紙、落書き。古代エジプトの庶民の日常がもっとも細かく分かる資料群。
村とともに消えた信仰: 王墓が谷に作られなくなり村が放棄されると、この女神の記録も途絶えた。三千年続いた神が多いエジプトでは珍しい。
メルセゲルが司るもの
墓地の守り
王家の谷を見下ろす峰の女神として、墓を守るとされた。
誓いを守らせる
偽りを述べた者に病と失明を与え、悔いた者を癒した。
毒からの守り
砂漠の墓地で働く職人にとって、毒蛇は現実の危険だった。
病の癒し
奉納碑には、罰を受けたあとに許され癒されたことが繰り返し記される。
メルセゲルが登場するゲーム・アニメ
扱われる機会は少ないものの、内容は濃い神です。
創作では、
王家の谷の守り神
として紹介されることがあります。
一方で、罰したあとに癒すという性格や、
私は間違った、と書く碑文
の珍しさは、ほとんど触れられません。エジプトの信仰が生活のなかでどう働いたかを知るには、この神がもっとも分かりやすい例です。
メルセゲルが登場するゲーム
メルセゲルが登場するアニメ・漫画・映像
古代エジプト展
職人の村の資料を扱う展示で、奉納碑とともに紹介されます。
王家の谷を扱った番組
エル・クルンの峰の形と、王墓がこの谷に集められた理由の説明で名が挙がります。
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メルセゲルについてよくある質問
メルセゲルは何の神様ですか。
王家の谷を見下ろす山の女神です。名は「沈黙を愛する女」を意味します。コブラの姿で描かれ、王墓を掘る職人たちに信仰されました。
なぜ王家の谷にピラミッドがないのですか。
谷を見下ろす位置に、自然の岩でできたピラミッド形の山があったためです。新王国の王墓は岩を掘った地下の墓に変わり、盗掘対策や費用の問題もあって、ピラミッドは建てられなくなりました。
罰する神なのですか。
偽りを述べた者に病と失明を与えたとされます。ただし、悔いて祈れば許し、癒しました。罰することと癒すことが、同じ神の仕事になっています。
「私は間違った」という碑文は珍しいのですか。
珍しいものです。エジプトの碑文は、ふつう自分がいかに正しかったかを述べます。死者の書の否定告白も同じ形式です。それに対し、この女神への奉納碑は自分の非を刻みます。書き方が反転しています。
この女神の信仰はいつまで続きましたか。
職人の村が放棄されるまでです。新王国が終わり王墓が谷に作られなくなると、村に人がいなくなり、記録も途絶えました。三千年続いた神が多いエジプトでは、きわめて珍しい消え方です。
いまも見られますか。
山そのものが残っています。王家の谷を訪れれば、エル・クルンと呼ばれるピラミッド形の峰を見上げることができます。奉納碑や職人の村の遺構は、テーベ西岸のデイル・エル・メディーナで見られます。
メルセゲルと併せて覚えたい言葉・用語
否定告白(ひていこくはく)
死者が四十二柱の神々の前で、それぞれに罪を犯していないと申し立てる形式。「私は盗んでいない」「私は量りをごまかしていない」など内容が具体的で、信仰ではなく行為を問う点が特徴。
死者の書(ししゃのしょ)
正しくは「日のもとに出現するための書」。冥界を通るための呪文集で、パピルスに書いてミイラとともに納めた。名前の欄を空けた既製品が売られており、購入者の名を書き入れて使った。