箱舟で石見に流れ着き、弓矢を修めて出雲を守った女神。
ムナスキヒメとは何の神様か
ムナスキヒメはひとことで言えば箱舟で流れ着いた姫です。島根県石見地方の伝説に登場します。
神代の昔、波子の浦に一艘の箱舟が流れ着きました。中にいたのは六、七歳ほどの幼い姫で、子のない老夫婦が育てることになります。
姫はどこから来たのかと聞かれると、東を指すばかりで何も語りませんでした。
ムナスキヒメの漢字表記と読み方
読みは「むなすきひめ」です。「ムナ」は胸、「スキ」は鉏、つまり土を掘る道具を指します。
胸の鉏という、意味の取りにくい名です。
伝説のなかで、姫は自らをスサノオの娘・田心姫と名乗ります。宗像三女神のタキリビメと同じ名です。
ただし、この伝説と宗像三女神の関係を記す文献はありません。同じ名が別の話で使われているとみるべきです。
胸鉏比売(むなすきひめ)
石見地方での表記。
田心姫(たごりひめ)
伝説のなかで姫が名乗る名。
十羅刹女(じゅうらせつにょ)
寇を退けたのちに贈られたとされる名。
ムナスキヒメの物語
箱舟の姫
話は、海から始まります。
石見の波子(はし)の浦に、一艘の箱舟が流れ着いた。
中にいたのは、六、七歳ほどの麗しい幼い姫だった。
出雲のスサノオの血筋に違いないといって、子のない翁と媼が育てることになります。
どこから来たのかと聞かれると、姫は東を指すだけでした。
慈しんで育てられた姫は美しく成長しましたが、弓矢の稽古に余念がありませんでした。家の中では、必ず上座に座ったといいます。
狼煙が上がる
姫が十三歳になったある日のことです。
東の出雲の方角に、狼煙が上がって天をこがした。
それを見て、姫はようやく出自を明かしました。
自分はスサノオの娘・田心姫である。幼いころ心が荒々しかったため、父の怒りに触れて流された。
夢のお告げにより、出雲へ帰れば十羅の賊を打ち負かせるという。
老夫婦は泣いて引き留めましたが、姫は振り切って走り出しました。追った二人は浅利の海岸で力尽きて亡くなったと伝えられます。
神楽の演目になる
この伝説は、神楽の形で伝えられてきました。
石見神楽 ─ 演目「十羅」。
出雲神楽 ─ 演目「日御碕」。
いずれも謡曲「御崎」が原典とされます。
石見神楽の「十羅」では、彦羽根という鬼神が対馬へ渡ろうとして時化に遭い、たどり着いた先で十羅刹女と戦います。
十羅刹女は仏教に登場する十柱の羅刹女ですが、ここではスサノオの末子として神仏習合した形で現れます。この伝説も同じ流れにあります。
元寇の記憶
この話の背景には、外からの脅威があります。
社伝の成立は応永二十七年(一四二〇年)まで遡れます。その前年、応永の外寇が起きました。
倭寇討伐を名目とした対馬への侵攻。明が襲来するという風聞が流れた。
鬼の名を「むくり」「こくり」とする伝えもあり、元寇の記憶も読み取れます。
海に面した石見の人々にとって、海の向こうから来るものは現実の恐れでした。
流れ着いた姫が海からの敵を退ける、という筋は、その恐れの裏返しといえます。
ムナスキヒメの家系図と家族
ムナスキヒメの性格と人物像
ムナスキヒメは、流された姫です。
幼くして箱舟に入れられ、海に流されました。育ての親に何も語らず、ひたすら弓矢の稽古を続けます。
そして狼煙が上がった日、育ててくれた二人を振り切って走り出しました。
追った老夫婦は死にます。姫は寇を退け、名を贈られます。恩を返さないまま去るという、割り切れない結末です。石見の人々は、その割り切れなさごと語り継ぎました。
ムナスキヒメを祀る神社
この女神にゆかりの地は、島根県江津市に集まります。
津門神社と岩根神社が知られ、岩根神社の由緒書は田心姫命の功績に触れたうえで、この女神の伝説にも触れています。
伝説の原典は、出雲市の日御碕神社の社伝にさかのぼります。
応永二十七年の日御碕社修造勧進状に、異国の防禦にまつわる話が記されています。
ムナスキヒメが現代に残した痕跡
ムナスキヒメの名は、神楽の演目に残りました。
十羅: 石見神楽の演目。十羅刹女と鬼神彦羽根の戦いを演じる。
日御碕: 出雲神楽の演目。同じ筋の後日譚にあたる。
じいさん井戸・ばあさん井戸: 浅利に伝わる井戸。老夫婦の涙が溜まったものとされる。
ムナスキヒメのご利益
厄除け
外から来る災いを退けたことによる。
武運長久
弓矢を修めて寇を防いだことによる。
ムナスキヒメについてよくある質問
ムナスキヒメとはどんな神様ですか。
島根県石見地方の伝説に登場する女神です。幼いころ箱舟で波子の浦に流れ着き、老夫婦に育てられ、のちに出雲へ帰って寇を防いだとされます。
記紀に出てきますか。
記紀に名はありません。日御碕神社の社伝と謡曲「御崎」を原典とする、石見・出雲の伝承にのみ伝わります。
宗像三女神のタキリビメと同じですか。
伝説のなかで姫は田心姫と名乗りますが、宗像三女神との関係を記す文献はありません。同じ名が別の話で使われているとみるべきです。