誓いと約束を守ることの女神。国家間の条約の文書が神殿に掲げられた。
フィデースとは何の神様か
フィデースはひとことで言えば約束を守ることを神にしたものです。取り引きの信用から国家間の条約まで、ローマ人の「守る」を一手に引き受けました。
カピトリーノの丘の神殿は、前254年ごろにアウルス・アティリウス・カラティヌスが建てたとされます。祭祀そのものはさらに古く、第二代の王ヌマが定めたと伝えられます。
祭祀の作法がきわだっています。三人の専属神官(フラーメン)が、二頭立ての覆いのある車で神殿へ向かいました。 そして右手を白い布で肘まで包んで犠牲を捧げます。
右手は誓いを交わす手です。包むことで、その神聖を示しました。
国家間の条約を刻んだ文書は、この神殿の壁に掲げられました。神殿が、そのまま条約の保管所でした。
貨幣では二つの右手を握り合わせた図で表されます。デクストラールム・ユンクティオー(右手を結ぶこと)と呼ばれる図像です。祭日は10月1日。
フィデースのローマ名・ギリシャ名と読み方
日本語では「フィデス」「フィデース」の両方が使われます。長音を書かない形のほうが多く見られます。
この語は訳しにくいことで知られます。信じることと信じられることの両方を含むためです。
信用、誠実、忠実、そして保護。
相手を信じる側の心と、信じられる側の資質が同じ語で表されています。ローマ人が敵に「わが誠実に身を委ねよ」と言うとき、それは降伏を促す言葉であると同時に、保護する義務を引き受ける宣言でもありました。
近代の諸言語で「信仰」を意味する語は、この語から出ています。ただしローマでのフィデースは、信仰ではなく約束の履行を指す言葉でした。心の内側ではなく、果たされたかどうかで測られるものです。
Fides(フィデース)
ラテン語の主格。属格はフィデイーとなる。信じること、および信じられることの両方を指し、信用と誠実の双方をまたぐ広い語である。
Fides Publica(フィデース・プーブリカ)
公けの誠実という意味。国家が結んだ約束を守ることを指し、条約や講和にかかわる場面で用いられた言い方。
Fides Populi Romani(フィデース・ポプリー・ロマーニー)
ローマの民の誠実という意味。碑文や公けの文書に見られる形で、降伏した相手を保護する義務までを含んだ。
フィデースの物語
王ヌマの定めた祭祀 ─ 法より先に神へ
フィデースの祭祀は、第二代の王ヌマ・ポンピリウスが定めたと伝えられます。
ローマ人は、自分たちの祭祀のほとんどをこの王に帰しました。フィデースもその一つです。
約束を守らせるしくみを、法より先に神に預けました。
これは制度としての意味があります。文字による契約書や、それを裁く法がまだ整っていない段階で、約束を破ったらどうなるかを神との関係で示しておく必要があったためです。
神殿そのものは、ずっとのちの前254年ごろに建てられました。アウルス・アティリウス・カラティヌスの手によるとされます。第一次ポエニ戦争を戦った人物です。
場所はカピトリーノの丘、ユーピテルの大神殿に近い一角です。ただし、丘のどこにあったのかは特定されていません。
祭祀は古く、神殿は新しい。この時間差は、ローマの古い神々にしばしば見られる形です。
白い布に包んだ右手 ─ 三人の神官の作法
フィデースの祭祀は、その作法で知られています。
犠牲を捧げるのは三人の専属神官(フラーメン)でした。フラーメンとは、特定の神に一生仕える神官のことです。
三人は、二頭立ての覆いのある車で神殿へ向かいました。
歩いていくのではありません。覆いのある車に乗ることで、道の途中で不吉なものを見聞きしないようにしたと説明されます。
神殿に着くと、右手を白い布で肘まで包みました。 その状態で犠牲を捧げます。
右手は、握手をし、誓いを交わす手です。その手を隠すことで、手そのものが神聖なものであることを示しました。
包んだ手では作業ができません。あえて不便な形にすることが、儀式の重みを作っています。
三人という数にも意味があるとみられますが、その理由については伝えが残っていません。
条約の掲示板 ─ 神殿が保管所だった
フィデースの神殿には、実務の役目がありました。
国家間の条約を刻んだ文書が、この神殿に掲げられたのです。青銅の板に彫った条文が、壁に並んでいたと伝えられます。
約束の中身が、神の前に貼り出されていました。
これは象徴だけの話ではありません。条文がどこにあるかがはっきりしていれば、後から言い分が食い違ったときに確かめられます。神殿が、実際の保管所として働いていました。
ローマは条約を結ぶとき、フェーティアーレースという神官団に儀式を行わせました。豚を打ち殺し、破ったときの呪いを先に唱える形です。その手続きの終着点として、文書がフィデースの神殿に置かれます。
こうして、約束は三重に守られました。儀式で呪いをかけ、神殿に文書を掲げ、女神が見張る。
書類の管理と信仰が、同じ建物のなかにありました。
握り合う二つの右手 ─ 貨幣の図像
フィデースの図像として、もっとも広く使われたのは二つの右手を握り合わせた図です。
デクストラールム・ユンクティオー、すなわち「右手を結ぶこと」と呼ばれます。
顔も体もありません。手だけが刻まれます。
この図は貨幣に繰り返し現れ、同盟の成立、軍の忠誠、婚姻の成立など、さまざまな場面で使われました。抽象概念の神のなかで、これほど中身を削った図像を持つ神は他にありません。
女神本人の姿もあります。白い衣をまとい、麦の穂や果物、あるいは皿を手にした姿です。祭祀で神官が白い布を用いたことと、色の選び方が重なっています。
祭日は10月1日です。
握手の図は、後世の紋章や記念の貨幣にも受け継がれました。約束を手の形で示すやり方は、ここから続いています。
石棺の浮き彫りにも同じ図が使われます。こちらは夫婦が右手を結ぶ場面で、婚姻が結ばれたことを示しました。同じ図が、国と国のあいだにも、人と人のあいだにも使われています。
フィデースの家系図と家族
フィデースのきょうだい: パークス誓いと平和として対にされる
フィデースの性格と人物像
フィデースには、物語も血縁もありません。あるのは作法です。
覆いのある車、白い布に包んだ右手、壁に掲げられた条約。この三つが、この女神のほとんどすべてを占めています。
人格ではなく、手続きが神になった形です。
研究の上では、フィデースはローマ社会の根っこにあった考え方を示すものとして重んじられます。ローマの人間関係は、有力者と従う者との間の結びつきで組み立てられていました。その結びつきを支えたのが、この語です。
降伏した相手を保護する義務まで含む点も重要です。「わが誠実に身を委ねよ」という言い方は、降伏を促すと同時に、こちらが守ると約束することでもありました。
約束を破ることは、単なる違反ではなく、神への背きでした。 ローマ人は、そう仕立てておくことを選びました。文字による契約や、それを裁く法が整う前の段階では、この仕立てが実際に効いていたとみられます。
フィデースを祀った神殿と遺跡
フィデースの神殿がカピトリーノの丘にあったことは、古代の記録から確かめられます。
ただし、丘のどこにあったのかは特定されていません。 ユーピテルの大神殿に近い一角と伝えられるだけで、遺構と結びつける決め手がありません。
住所の欄には、丘そのものの座標を使っています。
丘の上は中世以降に建物が重なり、古代の地面がほとんど残っていません。神殿の位置が決まらないのは、この一帯に共通した事情です。
条約の板が掲げられていたことはわかっていますが、その板も一枚も残っていません。カピトリーノの丘は火災と建て替えを繰り返しており、青銅の板は溶かされたとみられます。
フィデースの神殿(Aedes Fidei)
誓いと条約を祀った神殿
フィデースの神殿の住所: イタリア ローマ カピトリーノの丘(北緯41.8926 東経12.4822)
フィデースの神殿の祀られた神: フィデース・プーブリカ
フィデースの神殿に残るもの: 地上に残っていない
フィデースの神殿のご利益: 約束を守ること
前254年ごろにアウルス・アティリウス・カラティヌスが建てたとされる神殿です。祭祀そのものは王ヌマが定めたと伝えられ、建物より古いものでした。
三人の専属神官が二頭立ての覆いのある車で向かい、右手を白い布で肘まで包んで犠牲を捧げました。
国家間の条約を刻んだ青銅の板が、この神殿に掲げられていました。丘のどこにあったのかは特定されていません。
カピトリーノの丘。ユーピテルの大神殿に近い一角と伝えられるが、位置は確定していない。
フィデースが現代に残した痕跡
フィデースの名は、握手の図像と近代の語として残りました。
握り合う右手の図: デクストラールム・ユンクティオーと呼ばれる図像。同盟や忠誠を示す絵柄として、後世の紋章や記念貨幣に受け継がれた。
信仰を意味する語: ヨーロッパの諸言語で信仰や忠実を指す語が、この女神と同じラテン語から出ている。
結婚の握手: 婚姻の成立を右手を結ぶ図で示す表し方が、古代の石棺の浮き彫りから近代の図像まで続いている。
白い布の作法: 右手を布で包んで犠牲を捧げる所作が、ローマの祭祀のなかでもとくに古い形として研究されている。
フィデースが司るもの
約束を守ること
交わした約束が果たされることを見張る神とされた。
条約の成立
国家間の取り決めを刻んだ文書が神殿に掲げられた。
信用
取り引きや貸し借りで、相手が信じられることを司るとされた。
フィデースが登場するゲーム・アニメ
作品でのフィデースは、握手の図像として生き延びました。
女神そのものが主役になることはほとんどありませんが、二つの右手を結ぶ絵柄は、同盟や協定を示す標章として世界じゅうに広がっています。
神の名は忘れられ、手の形だけが残りました。
近世の寓意画では、白い衣に犬を伴った姿で描かれることもあります。犬は忠実さの目印として添えられたもので、古代の図像には見られません。
フィデースが登場する絵画・彫刻
誠実の寓意像
白い衣をまとい果物や皿を持つ女性像として、近世の装飾に描かれます。
古代の石棺の浮き彫り
夫婦が右手を結ぶ場面が、繰り返し彫られています。
フィデースが登場する図像・貨幣
二つの右手の貨幣
軍の忠誠や同盟の成立を示す図として、多くの帝の貨幣に現れます。
近代の紋章
握手の図が、同盟や協同組合の標章として受け継がれました。
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フィデースについてよくある質問
フィデースはどんな神ですか。
約束を守ることを神としたローマの女神です。取り引きの信用から国家間の条約までを司り、カピトリーノの丘の神殿に条約の文書が掲げられていました。祭日は10月1日です。
なぜ神官は右手を白い布で包んだのですか。
右手は誓いを交わし握手をする手であり、包むことでその神聖を示したと説明されます。包んだ手では作業がしにくくなりますが、あえて不便にすることが儀式の重みを作っていました。
神殿はどこにありましたか。
カピトリーノの丘です。ユーピテルの大神殿に近い一角と伝えられますが、丘のどこにあったのかは特定されていません。地上に遺構も残っていません。
二つの右手を結ぶ図は何を意味しますか。
デクストラールム・ユンクティオーと呼ばれる図像で、約束が結ばれたことを示します。貨幣では同盟の成立や軍の忠誠を表し、石棺では婚姻の成立を表しました。