和睦の唾から生まれた賢者。殺され、その血が詩の蜜酒になった。
クヴァシルとは何の神様か
クヴァシルはひとことで言えば詩の材料になった賢者です。生まれ方が変わっています。
アース神族?とヴァン神族?の戦争が終わったとき、講和の証しとして双方の神が壺に唾を吐き入れました。 そこから生まれたのがこの神です。
答えられない問いがひとつもない賢者でした。 世界じゅうを歩き、人に知恵を授けて回ったと伝えられます。
最期は理不尽です。小人の兄弟フィアラルとガラールに招かれ、殺されました。兄弟はその血に蜂蜜を混ぜ、飲めば誰でも詩人か学者になる酒を作ります。これが詩の蜜酒です。
蜜酒は巨人スットゥングの手に渡り、山の中で娘グンロズが見張りました。そこへオーディンが忍び込みます。
詩の才は神から降るのではなく、殺された賢者の血から絞られたものだ。 北欧神話の詩の起源は、この一点にあります。
クヴァシルの名前の表記と読み方
古ノルド語では Kvasir。日本語ではクヴァシル、クワシール、クファシルなどと書かれます。
名の由来がはっきりしています。東ヨーロッパの発酵飲料クワスと、語源を同じくするとされます。 麦や果実を発酵させた飲み物です。
つまり、もともとは酒の名だったと考えられています。神の名が先にあって酒になったのではなく、酒の名が先にあって神になったという順序です。
そう考えると、この神が殺されて酒になるという筋も腑に落ちます。名前がすでに酒なのですから、物語のほうが後から辻褄を合わせたのかもしれません。
Kvasir(クヴァシル)
古ノルド語の表記。醸した飲み物を指す語と語源を同じくするとされる。
Kvasir(クワシール)
日本語の資料で見られる別の表記。クファシルとも書かれる。
Óðrerir(オーズレリル)
血から作られた蜜酒を入れた器の名。「霊感を掻き立てるもの」の意とされる。
クヴァシルの物語
唾から生まれる ─ 和睦の証し
北欧神話には、二つの神族の戦争があります。アース神族とヴァン神族の争いです。
決着がつかず、両者は和睦しました。そのとき行われたのが、変わった儀式です。
双方の神が、ひとつの壺に唾を吐き入れました。
和睦の印を形に残そうとして、神々はその唾から一人の男を作ります。それがクヴァシルでした。
二つの一族の知恵を合わせた存在、というわけです。 実際この神は、あらゆる問いに答えることができました。
争いの終わりから、知恵が生まれる。 北欧神話には残酷な場面が多いのですが、この始まり方だけは静かです。
殺される ─ 血と蜂蜜
クヴァシルは世界じゅうを旅して、求められるままに知恵を授けました。
あるとき、小人の兄弟フィアラルとガラールが自分たちの家に招きます。二人きりで話がしたい、と。
そして殺されました。
兄弟は血を集め、蜂蜜を混ぜて酒に仕立てます。オーズレリルという器と、二つの甕に入れました。この酒を飲んだ者は、誰でも詩人か学者になります。
神々には「知恵に溺れて詰まって死んだ」と説明したと伝えられます。
知恵を惜しみなく与える者が、その中身を搾り取られる。 北欧神話でもっとも救いのない殺人のひとつです。
蜜酒の行方 ─ 巨人から主神へ
小人の兄弟は、その後も殺しを重ねます。霜の巨人ギリングとその妻を殺したのです。
息子のスットゥングが知り、兄弟を満潮で沈む岩の上に置いて脅しました。命乞いに差し出したのが、この蜜酒です。
スットゥングは蜜酒を受け取り、山の中に隠して、娘グンロズに見張らせました。
そこへオーディンが来ます。姿を変えて山に忍び込み、グンロズを口説いて三夜を共にし、三口だけ飲む許しを得ました。
そして三口ですべてを飲み干し、鷲に姿を変えて逃げ去ります。
アースガルズ?に着いたオーディンは、器に吐き出しました。詩の蜜酒は、こうして神々のものになります。
グンロズの側から ─ 二通りの語り方
この一件は、書物によって印象が違います。
新エッダ?は、オーディンが娘を騙して逃げたと書きます。
ところが古エッダ?『高き者の言葉』は、オーディン自身の言葉としてこう歌います。
善良な女性グンロズの助けがなければ、決して私は生きて帰れなかった。その腕で私を包んだ女性の。
続けて、彼女に悪い報いを与えたことも認めています。
騙し取ったのか、助けられたのか。同じ場面が二通りに語られています。
北欧神話では、こうした食い違いがしばしば残ります。どちらかを消してしまうより、両方を並べておくほうが誠実です。
いずれにせよ、詩の蜜酒には二人の血と、一人の裏切りが染みついています。
クヴァシルの家系図と家族
クヴァシルの性格と人物像
クヴァシルは、惜しまない神です。
知恵を隠さず、求められれば誰にでも答え、世界じゅうを歩いて回りました。報酬を求めた記録も、断った記録もありません。
そして、その惜しまなさが命取りになります。 呼ばれれば行き、二人きりでもかまわず、そこで殺されました。
この神が北欧神話で果たしている役割は、はっきりしています。詩の才がどこから来たのかを説明することです。
答えは、神の恵みではありません。殺された賢者の血に、蜂蜜を混ぜたものです。飲めば誰でも詩人になれるが、その一杯は人ひとりの命でできています。
北欧の詩人たちは、自分の技をそう説明しました。言葉には代価がある。 詩を作るとはどういうことかについて、これほど容赦のない答え方は、ほかの神話にあまり見当たりません。
クヴァシルゆかりの地と遺跡
クヴァシルを祀った場所は見つかっていません。 神殿の記録も、この名を確かに含むと言い切れる地名も確かめられませんでした。
この神は、生まれてすぐ殺され、酒に変えられます。祀るための時間がありません。
かわりに残ったのが詩の蜜酒という考え方です。北欧の詩人たちは、自分の作る詩を「オーディンの獲物」「小人の船」などと呼びました。詩そのものを指す言い換えの語に、この一件の記憶が畳み込まれています。
クヴァシルが現代に残した痕跡
この神の名は、酒を指す言葉と、詩を指す言い換えの語に残りました。
発酵飲料クワス: 東ヨーロッパの飲み物で、麦や果実を発酵させて作る。この神の名と語源を同じくするとされる。
詩を指す言い換え: 北欧の詩人は、詩そのものを「オーディンの獲物」「小人の船」などと呼んだ。いずれもこの一件に由来する言い方である。
オーズレリル: 血から作られた蜜酒を入れた器の名。「霊感を掻き立てるもの」の意とされ、詩の霊感を指す語としても使われた。
クヴァシルが司るもの
知恵
答えられない問いがひとつもない賢者として、世界じゅうを歩いた。
記憶
二つの神族の知恵を合わせた存在として生まれ、その血が詩の源になった。
公正
二神族の和睦の証しとして作られた存在である。
クヴァシルについてよくある質問
クヴァシルとは何ですか。
アース神族とヴァン神族の和睦のとき、双方の神が壺に吐き入れた唾から生まれた賢者です。答えられない問いがひとつもなかったとされます。
なぜ殺されたのですか。
小人の兄弟フィアラルとガラールが、その血から酒を作るためです。血に蜂蜜を混ぜて、飲めば誰でも詩人か学者になる詩の蜜酒に仕立てました。
詩の蜜酒はどうなりましたか。
巨人スットゥングの手に渡り、娘グンロズが見張りました。そこへ忍び込んだオーディンが飲み干し、鷲の姿でアースガルズへ持ち帰っています。
名前の由来は何ですか。
東ヨーロッパの発酵飲料クワスと語源を同じくするとされます。もともとは酒の名だったと考えられています。
クヴァシルと併せて覚えたい言葉・用語
アース神族(あーすしんぞく)
オーディンを主神とする神々の一族。戦いと支配を担う。アースガルズに住む。
ヴァン神族(ヴぁんしんぞく)
豊穣と富を担う神々の一族。アース神族と戦って和睦し、ニョルズ・フレイ・フレイヤが人質としてアースガルズへ渡った。
アースガルズ(Ásgarðr)
アース神族が住む神々の国。虹の橋ビフレストで地上とつながる。
新エッダ(しんエッダ)
1220年頃にアイスランドのスノッリ・ストゥルルソンが著した散文の書。神話を体系的に整理しており、現在の北欧神話の理解はこの書に多くを負う。
古エッダ(こエッダ)
詩の形で伝わる北欧神話の歌謡集。13世紀の写本に収められたが、成立はさらに古い。作者は不明。